目次
石坂浩二の生い立ちや歩み
石坂浩二の幼少期~小学時代
1941年(昭和16年)6月20日に東京市京橋区(現・東京都中央区銀座)で生れた石坂浩二さんで、芝居好きな祖母に連れられよく浅草通いをしていたそうです。
芝居や落語の寄席が好きで夢中になっていた子供時代で、物心つく頃には、芝居や芸事にハマリ、特に「日本の喜劇王」と呼ばれたエノケンこと榎本 健一(えのもと けんいち)氏の作品に夢中になったとか。
落語も小学校を卒業するまでにたっぷりと楽しんだようデス♪
通っていた幼稚園は、園調布にある聖フランシスコ派の小さき花の幼稚園でしたが、石坂さんの4歳になろうとする年の昭和20年の3月10日東京大空襲を経験したそうです。
その時の疎開先は、神奈川県にあった食堂の2階の部屋だったそうですが、戦後になり自宅がある田園調布に帰ってみると、隣の大岡山や奥沢一体は全滅だったそうですが、ご実家は戦災から免れたとのこと。
地域の中で残った家がわずか4軒で、その1軒が石坂さんのご実家だったそうですが、米軍に撤収されたそうです。
そして、その未来に石坂さんに飛行機やソリッドモデルの作り方を教えくれる上級生のカサイ君の家も焼け残っていんだとか。
終戦の時、石坂さんは4歳で、石坂さんが飛行機好きになったのは、カサイ君の影響が大きいそうで、「航空朝日」を持って来たのもカサイ君だったとか。
カサイ君が持って来た専門誌に記載されている飛行機の写真にすっかり魅了されてしまった石坂さんでした。
そして、その後はカサイ君をはじめ周りのお兄ちゃんたちに刺激を受けれ飛行機の世界に感化されていったようです。
石坂さんの小学校の進学先は、田園調布小学校でいろんな本を読む子に育っていき、習い事のそろばんは性に合わなかったのかすぐやめたんだとか。
ダラダラと時間を過ごすお子様ではなかったそうです。
この頃から6歳くらい年上の近所のお兄ちゃんが木材などをくれて一緒に模型を作ったり、日本画の画家を目指していた近所のおばちゃんに絵を勧められて、絵を描いていたりしていたそうですよ。
石坂浩二の中学時代
神奈川県横浜市にある私立の男子校の慶應義塾普通部に進学した石坂さんですが、同級生はみんな慶應義塾幼稚舎(小学校)から進学していて、石坂さんが言うには、ものすごい生意気でませていたそうな。
そんな同級生に落差を感じた進学先でした。
友達の父親はN響(NHK交響楽団)バイオリニストだったため、その友達に連れられN響を聞いて、でかい音に衝撃を受け仰天した石坂さんだったそうです。
その後は、レコードのLP盤を買うためにお小遣いを貯めたそうです。
当時は昭和30年か31年で、価格は2000円でクラッシクのレコードをゲットしたのでした。
その他、プレスリー(エルヴィス・アーロン・プレスリー)を語る友達もいてそうで、プレスリーの曲を聞くためにラジオを作った石坂さん。
ラジオを作ってからは、プレスリーを聞き、大好きな落語も聞くことになったそうな♪
石坂浩二の中学時代のエピソード
中1の修学旅行で日光に行った時に「即興で芝居をやろう」となり、落語の「寝床」という演目を友人たちで演じたことがきっかけとなり、旅行後に演劇部を立ち上げた石坂さんでした。
演劇のほかにも、放送劇を制作し、女形に挑戦したことがあったそうな。
演技の面白さにハマっていった石坂さんでした。
石坂浩二の高校時代
慶應義塾高校に内部進学をし、演劇部に所属した石坂さん。
高校の演劇部はゴージャスで、市川猿翁(いちかわ えんおう) 氏こと 喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)氏が、自宅からソファやテーブル・コーヒーメーカーなどを持ち込み、ゴージャスな部屋に仕上げたんだとか。
その他にラジオ局でバイトをしていて、番組が1ヶ月2000円と言う低予算だったためDJも自分でやっていたそうですよ。
このバイトは日本短波放送の知り合いの人から依頼されたのがきっかけで始めたそうですが、渋谷~浅草の電車賃が20円の時代で得たバイト料の400円は、電車賃や外食代で消えたんだとか。
このラジオ局では構成台本の作家として活動していて、この時代の俳優はアドリブで話すことがなかった為、構成台本はビッチリ書いてないと怒られるので、大変だったそうな。
授業をサボって台本を書いていたので、先生に見つかった時には学校中を追いかけ回されたこともあったとか。
この演劇部の他に、アマチュア劇団ふえろうを主宰し、劇団を維持していくために通行人の役などでエキストラで収入を得たりしていたそうです。
因みにテレビデビューは1958年に放送されたドラマ『お源のたましい』で通行人のエキストラだったんだって♪
この超が付くくらい多忙な高校時代に、母親が結核で入院したのをきっかけに料理をするようになった石坂さんだけど、その時間をよく捻出したなぁ~と思っちゃった。
石坂浩二の大学時代
大学進学後は芥川比呂志(あくたがわ ひろし))氏が設立した新演劇研究会に入部し、大学2年の時に舞台プロデューサーの吉田史子に衣装を借りたきっかけで、舞台「黒蜥蜴」に出演することになった石坂さんでした。
「黒蜥蜴」の出番待ちの間は、楽屋でプラモデルを作っていたそうで、その時に俳優の大空真弓さんに声を掛けられ仲良しになったそうな。
その縁がTBSプロデューサーの石井ふく子さんとの縁に結び付き、ドラマ「七人の刑事」の第113話『あにおとうと』に出演することになったとのこと。
そして、次に声が掛かったのは「潮騒」で加賀まりこさんと共演だったとか。
石坂浩二の芸名の由来
テレビドラマ「潮騒」に出演の声が掛かったときに、石井ふく子さんが「あなた、本名の 武藤 兵吉(むとう へいきち)じゃダメ。」と言われ、後日、そば屋に呼び出され”石坂浩二”の名前を見せられた石坂さんでした。
石井さんは5つの候補を挙げ、大空真弓さんの姓名判断の大家の父親に見てもらったところ、”石坂”の名前が黄金に輝いていたそうで、それで「石坂浩二」の名前が決定したそうな。
1962年・昭和37年に芸名”石坂浩二”クレジットでTBSテレビドラマ「潮騒」に出演したのでした。
石坂浩二の決意
石坂さんの大学2年の時・1962年に放送された「パパだまって」のロケが期末テストとぶつかってしまったことで、留年することを決意したそうです。
その報告を受けた父親は怒り、石坂さんに”大学を卒業すること” と ”きちんとした職業に就く” という2つの条件を言い、「大学卒業するまでの学費は払うが、4年分以上は払わんから自分で出せ」と言い放ったのでした。
石坂さんはそれらの条件に応じて、芸能活動に本腰を入れることができたのですが、2年生を3回経験することに。
当時の必修科目だった体育の単位を取得できず、三田から日吉に単位を取りに行くこともあったんだそう。
かなり大変だったようで、2018年頃まで単位が取れないから卒業できないっていう夢を見ていたそうです。
石坂さんの大学時代にNHKの大河ドラマに出演したのは、1963年に放送された「花の生涯」・1964年に放送された「赤穂浪士」・1965年に放送された「太閤記」の3作。
当時のNHKは、学生を連続ドラマに出演させることに厳く、卒業できるよう学業に専念する旨の誓約書を書かなければ出演を許されなかったそうな。
因みに、石田三成役が決まったのは、石坂さんの写真を見て「頭がよさそうに見える」というだけで起用されたんだとか。
石坂浩二の大学3年エピソード
大学3年にやっと進めた石坂さんは、この一年は学業に専念したと思っていたそうですが、TBSにいた円谷一 氏から”ウルトラQ”のナレーションをしてみないかとお声掛けがあり、「する」と即答した石坂さんでした。
石坂さんは、子供の頃に見た「ゴジラ」から特撮のファンになっていたことが”する”理由だったとか。
石坂浩二と浅利 慶太(あさり けいた)の出会い
浅利慶太氏と知り合ったきっかけは、加賀まりこさんからのお声掛けだったそうです。
1966年・昭和41年の舞台「泥棒たちの舞踏会」が終わってから、共演した加賀まりこさんから電話で「会ってくれない?」と言われたんだとか。
会うと、浅利氏から「ウチに入れ」とスカウトされ、卒業と同時に入所することにした石坂さんでした。
石坂浩二の大学卒業後は浅利慶太のスカウトで劇団四季に入所
石坂浩二の大学卒業後は劇団四季に所属
劇団四季に入所した当時は、演出や脚本などスタッフを目指していていたようですが、仕事は演出部門で浅利氏の仕事をスムーズに運ぶようにする出演助手だったそうです。
助手を務めながら俳優業もこなしていたため超多忙で、家に帰る時間が惜しく衣装部の部屋で寝る日々を送っていたとか。
ですが、体が悲鳴を上げ1967年に放送されたTBSドラマ『平四郎危機一発』の出演中に倒れてしまい、虎ノ門病院でお世話になることになったのでした。
病名は胃潰瘍だったそうで、これを機に退所を決心した石坂さん。
この時に加賀まりこさんも一緒に退団したとのこと。
入所してからの2年間は、ボイストレーニングの個人レッスンを受けいたそうで、このレッスンで音域を自由に操れるようになり、「ナレーション石坂」も最高で引く手あまたに♪
ですが、BGMがないナレーションは引き受けないそうよ。
浅利氏から「二枚目は声が聞きやすくないとダメ」と言われたことがきっかけだったとか。ナイス浅利氏って感じ(b≧∀)グッド♪
石坂さんが脚本を務めた劇団四季の子供向けミュージカル「王子とこじき」は、今でも上演されているそうですよ。
※石坂浩二さんの書籍”石坂浩二自伝「翔ぶ夢、生きる力」”で劇団四季に「入団した」とは書いてなく「入所した」と書いてあったことから当サイトも”入所”と記載いたしました。
石坂浩二の退団後は東宝に所属
退団後にすぐ、東宝の重役だった菊田一夫氏と会った時に帝国劇場に出て欲しいとお声掛けがあり、それがきっかけで東宝に所属することに。
1969年の石坂さんが当時28歳に放送された『天と地と』がヒットし、オファーが殺到しましたが、石井ふく子さんからの依頼で1970年「ありがとう」に出演することにしたのでした。
その時の作品の共演が水前寺清子さんことチーターで、彼女とは以前に音楽番組で共演したこともあり、気心が知れていたとのこと。
石坂浩二の学歴と最終学歴
石坂浩二の学歴と偏差値
小さき花の幼稚園
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田園調布小学校
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慶應義塾普通部(中学の偏差値は75)
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慶應義塾高等学校(偏差値は76)
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慶應義塾大学(偏差値は67.5 )
石坂浩二の最終学歴
慶應義塾大学法学部法律学科卒業されているので、石坂さんの最終学歴は大卒になります。
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