目次
石坂浩二のプロフィール・仕事エピソード・俳優・活躍・病歴

出典:むぎの渋茶
石坂浩二のプロフィール
本名:武藤 兵吉(むとうへいきち)
あだ名:へーちゃん
生年月日:1941年6月20日
年齢:81歳(2022年12月時点)
出生地:東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)
身長:177 cm
体重:65㎏
血液型:O型
結婚歴:2回
好きな球団:阪神タイガース
愛車:黄色のフェラーリ(阪神タイガースカラーだから黄色だそうです)
趣味:プラモデル作り・写真・釣り・弓術
特技:料理・絵画・デザイン・ギター
国家資格:不動産鑑定士・宅地建物取引士
職業:俳優・タレント・司会者・ナレーター・コメンテーター
活動期間:1958年 –
ターニングポイント:金田一耕助を演じたこと
所属事務所等:劇団四季→ 東宝→大橋巨泉事務所→ フリー→ プロダクション尾木(2015年10月~)
参考元:エキサイトニュース・人物辞典・PASONICA JPN・高校偏差値ナビ・石坂浩二Wikipedia・Webザテレビジョン2020/06/15・スポニチ2017年8月1日・SUUMOジャーナル2013年1月29日・exciteニュース2014年10月29日・当サイト・ほか
石坂浩二の仕事エピソード

出典:ブクログ 【公式】アカウント@booklogjp
ナレーターの石坂浩二は最高
「石坂浩二の生い立ち」でも触れましたが、劇団四季の演出部にいた時に、ボイストレーニングに約2年間通った石坂さんでした。
もう、名ナレーターとしても周知で、扱ってきた作品は多岐にわたっています。
そんな石坂さんは、大大大の阪神タイガースファン。
2020年2月に公開された”球団創設85周年を記念した公式ドキュメンタリー映画「阪神タイガースTHE MOVIE~猛虎神話集~」のナレーションを務めたとか。嬉しかったでしょうね~♪
因みに、生で別当薫さんを見たことで、追っかけになり阪神ファンになったとか。
石坂浩二が切に願ったゴジラ出演
石坂さんはゴジラのファンで、1984年版の映画「ゴジラ」にちょっとした役で出演したそうです。
そのゴジラの映画は、”ゴジラ誕生30周年記念として復活したゴジラ第16作目であり平成ゴジラシリーズの第1作”で、この映画に出演したかった石坂さんは、「金(ギャラ)なんかいらない、ワンカットでも出ることに意義があるんだ」と監督の橋本幸治に直談判して、「ゴジラを最初に目撃する原発職員」というちょい役をゲットしたんだとか。
石坂浩二が借金したのはギュスターヴ モローを購入するため
石坂さんの好きな画家はフランスの「ギュスターヴ モロー(Gustave Moreau)」で、中学生の頃からずっと好きで「一生のうちにどんな絵でもいいから持ちたいと思っていた」んだとか。
そんな思いをずっと持ち続けていた石坂さんでしたが、1970年にチャンスが到来したようです。
ギュスターヴ・モローの絵画が岐阜で1500万円で売りに出されたことを知った石坂さんは、その絵をゲット!
その絵をゲットする為にかき集めたお金は500万円。
足りない1000万円は、フジテレビから前借りしたんだとか( Д ) ⊙ ⊙!!
借金後の仕事は『スター千一夜』で、その番組の司会では支払い切れず、その番組の後は、松平健氏主演の『人間の条件』という昼ドラマのナレーションを2年くらいして借金を完済したそうです。
20代の頃から時間があれば、モローの作品が展示されている倉敷の美術館に何度も何度も足を運んでいた石坂さん。
29歳の時に一つの夢が叶ってよかったですね♪
石坂浩二と鑑定団
鑑定バラエティ番組「開運!なんでも鑑定団」で1994年4月から島田紳助氏と一緒にMCを務めていた石坂さんでしたが、2014年頃から、石坂さんの発言シーンがカットされるなどなどの不自然な放送が指摘されていたようです。
そして、2016年3月に降板した石坂さんで、それが“イジメ・降板騒動”として世間を騒がせることになったようです。
石坂さんより先に引退した島田紳助氏が「情報ライブ ミヤネ屋」で「確実に言えることは、石坂さんなしではあの番組の成功はなかったということ。僕だけでは単なるバラエティーに終わっていた。」と異例のコメントをすることに!
イジメが実際にあったのか否かは実際のところ判っていません。
鑑定バラエティ番組「開運!なんでも鑑定団」の裏話
この番組がスタートする目に、島田紳助氏は骨董品などの知識が乏しかったことから、番組を成功させるためにも知識のある石坂さんの力を必要だと判断し、当時は番組予算が限られていたことからご自身のギャラを折半することで自らオファーしたというトリビアあるようです。
因みに、島田紳助氏は2011年8月23日放送分終了直後に芸能界引退を発表したため、その後は今田耕司と共に司会を務めた石坂さんでした。
石坂浩二の金田一シリーズ
石坂さんの代表作と言えば「金田一シリーズ」が浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
金田一をだらしなくさせるため、市川監督の指示で衣装を衣装さんに着せてもらうのではなく、石坂さんは自分で着たそうな。
そうしたらあの独特のヨレヨレの着方ができあがったそうな。
そして、金田一と言えば”フケ”。
そのフケは、食パンのイングランドの山のあるところだけをもんでパン粉みたいにしてから、塗料の原料と一緒に混ぜて、フライパンで乾燥させて新たなフケを独自に開発したんだとか。
歴代の金田一俳優にフケ製造法を伝授している石坂さんでした。
次に、もじゃもじゃ髪型ですが、髪の毛を一度脱色してから黒に染め、パーをかけてからパーマを取ると髪の毛がギシギシになってあの金田一のもじゃもじゃの髪型になるそうです。
石坂浩二出演のやすらぎの郷

出典:公式やすらぎの刻〜道Instagram
昼ドラ「やすらぎの郷」では、石坂さんの元カノの加賀まりこさんと、元妻の浅丘ルリ子さんとの共演が話題の一つになったようです。
お三人はこのドラマで共演することが「イヤ」ではなくて、「楽しんで」いたそうです。
この「やすらぎの郷」は2019年4月8日から2020年3月27日まで、お昼に放送されたドラマで、「石坂浩二」・「加賀まりこ」・「浅丘ルリ子」をよく知る倉本聰氏の脚本でした。
石坂浩二の復讐
石坂さんが劇団四季に在籍していた時に、先輩にいびられていたそうな。
シュークリームの差し入れがあったある日、シュークリームのクリームを取ってクレンジングクリームを入れリメイクし、そのリメイクしたシュークリームをいびる先輩に「差し入れです」と言って渡したんだとか。
それが頭にきていた石坂さんの復讐でした。
そのいびる先輩は1個まるごと食べて、翌日も体調に変わりなく働いていたそうですよ。
因みに、復讐後の石坂さんは、いびる先輩が仕事に来なかったらどうしようと震えていたんだって。
作詞家の石坂浩二

出典:https://twitter.com/isopie_
石坂さんが出演した日本テレビのドラマ『3丁目4番地』の主題歌の作詞をしたそうです。
その曲は、1972年2月10日発売された『さよならをするために』でビリーバンバンさんが歌いました。
作曲・編曲は坂田晃一氏がしたそうです。
参考元:NEWSポストセブ2015.03.07・石坂浩二自伝「翔ぶ夢、生きる力」・サンスポ2019/12/19・ORICON NEWS2017-09-05・東スポWeb2017年9月5日・東スポWeb2016年2月2日・デイリー2018.09.03・デイリー2017.09.23・デイリー2017.09.05・AERA.dot2017/09/22・KINENOTE・Sakata World・スター千一夜Wikipedia・高校偏差値ナビ・Twitter・ほか
石坂浩二の活躍
石坂浩二の初個展は自由が丘の駅前

出典:藤原氷子@hyoukofujiwara
画家の東郷 青児(とうごう せいじ)氏の目に止まり、デッサンの勉強をするようにアドバイスを貰い、知り合いの先生を紹介してもらい、1972年に初の個展が実現した石坂さんでした。
初の個展場所は、自由が丘の駅前に遠縁の画廊だったとか。
石坂さんの絵の歴史は、4歳の時の疎開先から始まったそうで、中学に進学すると絵の上手な同級生に出会ったことで、ライバル心が湧いて絵がうまくなりと思う様になったこともあったのですが、絵から舞台に興味が移ったためしばらくお休みすることになったようです。
絵を再開したのは、石坂さんが結婚してからで、東郷氏から水彩画から油絵に変えて二科展に出すこと勧められたのがきっかけだったとか。
1974年に初めて出品して入選してから、1985年まで連続して入選していたそうです。
石坂浩二のプラモデルの原点は小学時代

出典:SOW@新刊12月発売@sow_LIBRA11
石坂さんのプラモの原点は小学生時代で、プラモデルと出会ったのは中学3年の1956年だったそうな。
東京・新橋にオープンして間もない輸入プラモ専門店「ステーションホビイ」に友人と立ち寄り、初めて見るプラモに衝撃を受けた石坂さんでした。
輸入プラモデルは安くても1キットは500~600円ほどでメインは1000円前後。
当時の大卒・国家公務員の初任給が1万2900円くらいの時代に、中学生では手が出せなかったそうな。
初めて購入したのは高校に進学した後で、米国・レベル社のX-5を小遣いをやりくりして手に入れたんだとか。
慶応大学在学時に演劇にのめり込んだため、計5年間はプラモ作りをお休みしていていたようですが、俳優業がうまくいくとプラモ作りを再開し、1年に20個ほど完成させるそうです。
気に入ったプラモは2箱買い、1箱は予備だそうで、購入後は1週間くらい箱を眺めて楽しんでいるんだとか。
購入後、制作に至らず積み上げたままの“積むプラ”は200個以上あるそうで、正確な数字は分からないくらいたくさんあるようです。
因みに、2009年に「ろうがんず」を立ち上げ、2014年から始めた年に1回の一般公募コンテスト「ろうがんず杯」の優勝賞金30万円、各賞含めて総額60万円は石坂さんのポケットマネーだそうですよ。
石坂浩二が寄贈した戦艦長門の日章旗

出典:くそわんこ@kusowanko
2006年9月に旧呉海軍工廠(こうしょう)で造られた戦艦長門の先任旗を呉市にある大和ミュージアムへ贈った石坂さん。
2006年に石坂さんが出演するテレビ番組『お宝鑑定団』で取り上げられ「日本に残したい」と思い軍艦旗と少将旗を寄贈したそうです。
その旗は、米国人の依頼人の父が、元海軍将校フリン大佐から死の直前に託されたものだったとか。
テレビ番組『お宝鑑定団』での鑑定結果は1000万円だったそうですが、人知れずそっと買い戻し、寄贈した石坂さんでした。 (・_・)ノ あっぱれ!
参考元:2017年初版/石坂浩二自伝「翔ぶ夢、生きる力」・AERA.dot2022/06/04・楽天ソレドコ2020-11-11・中國新聞2014年7月10日・八島日報・ほか
石坂浩二の病気は胃潰瘍と直腸癌?車椅子はなぜ?

出典:ジェット・リョー@ikazombie
若い頃に胃潰瘍で倒れたことがあることは「石坂浩二の生い立ち」でお伝えしましたが、ここでは別のケガや病気をお伝えしています。
石坂浩二が車椅子を使っていた訳は医療ミス
1985年に公開された映画「ビルマの竪琴」のロケ中にカレーパンを切ろうとし、誤って包丁を落としてしまったそうです。
左足の親指と人差し指の腱が断裂した状態なっていて手術を受けましたが、術後、約5年くらいは寒くなると痛んでいたのそうな。
病院でレントゲン撮影をした時に白いガーゼのような異物が同箇所に入っていることが判明したとか!
当時は車椅子や松葉杖を使うほど深刻な状態になっていたそうです。
因みに、この医療ミスは、手術した医師が認めていないんだって。
石坂浩二は痔ではなく直腸癌だった
2001年から始まった石坂浩二の4代目水戸黄門でしたが、撮影終盤で大腸(直腸)ガンが見つかり番組を2年弱で降りることになったのでした。
時代劇は「”痔”代劇」と言われ、体のいろんな所を結ぶから血行が悪くなり痔になることが多いそうで、当時の石坂さんも下血があっても”痔”だと思っていたそうですが、ガンを患った義兄から検査を強く進められたことがあり検査をするとステージ3のガンを告知されたそうな。
当時の石坂さんの年齢は61歳で、術後の翌日から歩く練習し始め主治医が驚くほどの回復ぶりだったとか。
石坂浩二は脳梗塞になっていない

出典:むぎの渋茶
石坂さんの病気を調べていると「石坂浩二 脳梗塞」と出て来ますが、これは1969年に放送された大河ドラマ「天と地と」で上杉謙信役で出演し、脳梗塞の発作を起こして落馬するシーンがあったことで、「石坂浩二 脳梗塞」のキーワードが出てくるようです。
実際には脳梗塞になっていないようですよ。
参考元:ORICON NEWS2007-03-26・石坂浩二自伝「翔ぶ夢、生きる力」・NEWSポストセブン2020.02.13・芸能界メディカル速報+NEWS・ほか
長々と石坂浩二さんの生い立ちや家族構成などをお伝えしましたが、これでおしまいです。
石坂浩二さんは、残念ながらSNSでの発信はしていないようです。
ここまでお付き合いしていただき、ありとうございました(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)ペコリ
U-NEXTは登録も解約も超簡単!
・約1ヶ月の間観たいあれこれを観ちゃって解約してもOK(ノ*>∀<)ノ♡
・あのNHKも観られちゃうからちょ~お得って感じ(๑♡∀♡๑)
・CMナシだから作品を観ながら時短が出来るヾ(´︶`♡)ノ
そ・し・て( ॣ– ̫ • ॣ)♡
22万本見放題で毎月1,200ptもらえてお買い物が出来る!
お試し中でも600ポイントが当るのよぉ♪・・(๐◊๐”)/ビックリ嬉しい♪
動画・マンガ・雑誌も徹底して楽しめる!
U-NEXTの詳しくは ↓ で確認してね⸜(◡̈ )⸝
石坂浩二の作品はの<U-NEXT>で決まりだね!
コメントを残す