「老いとは億劫との戦いです」と心に響く言葉を発信した草笛光子さんの生い立ちやご家族について紹介しています。
いつまでも輝かしくて美しい女優の草笛光子さんが、どんな人生を歩んでこられたのでしょうね。
では綴って参ります(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
目次
草笛光子の生い立ちや出身校
草笛光子の生れ場所
1933年の10月に母方の祖父母の家・神奈川県横浜市神奈川区斎藤分町でお生まれになった草笛さん。
神奈川県横浜市神奈川区の中丸で、すぐ近くに住む父方と母方の合わせて3人の祖父母に囲まれて草笛さんは育ったことで、草笛さんは家族以外の人と顔を合わせるのがひどく苦手な子供になったとのこと。
参考元:日本経済新聞
草笛光子の名前の由来
母の枕元に子育て観音の像を置いたらピカーッと光った事から「光子」と命名されたそうです。
参考元:日本経済新聞
草笛光子の幼少期~小学時代
草笛さんが幼稚園に入っても祖母に付き添ってもらわないとダメだったそうで、祖母が帰ってしまうと先生に出席を取られても返事が出来ず、草笛さんの代わりに隣の子が答えてくれていたそうです。
草笛光子の幼少期のエピソード
家族以外の人と顔を合わせるのがひどく苦手だった草笛さんを心配した母親が、近所の子どもたちを家に呼び、食べ物とおもちゃを置いて、その子たちと草笛さんと遊ばせようとしましたが、草笛さんは母親の心配も知らず、一人で近所の子供たちに背を向けておもちゃをいじくっていたとか。
草笛光子の出身小学校:横浜市立斎藤分国民学校(旧制小学校)
草笛さんの小学校低学年時代は、超偏食で卵焼きとチョコレートしか食べられなかったせいか、体が弱かったそうで1週間登校しては1週間休んでいたとか。
勉強の遅れを取り戻すために設置された特別クラスの授業を受けていた草笛さんで、この虚弱体質を克服するためバレエを小学時代から習い始めたそうです。
登校時は大好きなお婆ちゃんの付き添いが必要だった彼女でした。
草笛光子の小学時代のエピソード
草笛さんの小学校4、5年生くらいのころ太平洋戦争が激しくなり、学童疎開で横浜市内の小机にあるお寺に先生や同級生たちと行くことになった彼女は、初めて家族と離れて暮らすことに。
どうしても家に帰りたかった草笛さんは、病気になることばかりを考え、願い、その願いが叶ったのか、微熱を出して家にもどる事が出来たのでした。
ですが、戦争中のこと。
家に戻ってしばらくして、群馬県の高崎から富岡へと縁故疎開をしていたのでした。
父親は仕事があるため横浜に残り、母親・妹が2人と弟が1人と草笛さんでの移動でしたが、その間に5歳の妹さんが他界したのでした。
参考元:日本経済新聞・PASONICA JPN・ハルメクweb2021/09/28・koimousagi・KINENOTE・ほか
草笛光子の中学時代~高校時代
草笛光子の戦後の住まい
戦争が終わると、草笛さん一家は焼けずに残っていた母方の祖父母の家(神奈川県横浜市神奈川区斎藤分町)で暮らすことになったそうです。
戦後ですから、その家には草笛さん一家だけではなく、近所の焼け出された人たちも一緒に住んでいたとか。
そのなかの一人に松竹歌劇団(SKD)の舞台に興味を持っていた草笛さんと同年代の女の子もいたそうです。
このころの草笛さんは、勉強が得意ではなかったのに、父親は県立横浜第一高等女学校を受験しなさいと言ったため、その高校を受験し、合格をした草笛さんでした。
草笛さん曰く、「私にはレベルが高すぎて無理、と思ったけれど、言われるがままに受けたら、なぜか受かってしまった。どうして受かったのか、いまだにわからない。」とか。
草笛光子の進学した高校:神奈川県立横浜第一高等女学校(現在は神奈川県立横浜平沼高等学校
神奈川県立横浜平沼高等学校の偏差値:66(執筆時)
草笛光子の通学事情
草笛さんは、お住まいから高校まで約3㎏の道のりを電車がありながら徒歩で通っていたそうです。
何故徒歩で?と思われるかもしれませんが、当時の心情を草笛さん曰く、「満員電車に押し込まれ、知らない人たちの顔と出会うと、胸が苦しくなって我慢できない。」と。
この登校事情のお陰で、草笛さんは体が丈夫になったようで、水泳、テニス、ソフトボールなどの運動を沢山して楽しんでいたようです。
放課後は、舞踊サークルで活動し楽しんでいたとか。
草笛光子と松竹歌劇団(SKD)
草笛家族と一緒に暮らしていた草笛さんと同年代の女の子が彼女にSKDの学校を受けるようとしきりに勧め、根負けした草笛さんが入団試験にチャレンジして見事合格!
倍率は60倍で、草笛さん曰く、「何故か受かってしまった」とか。
ですが、両親は心配して反対。
草笛さんはどうして良いやらわからなくなったのでしょう。
学校で頼りにしていた体操の男の先生に相談すると、「自分の人生は自分で決めるのが一番。1カ月間、学校を休んで松竹の学校に通ってみなさい。そのうえでどうするか、自分で決めればいい」と言ってくれたことで、ご両親が理解をしてくれ、彼女は1カ月間、学校を休んで松竹の音楽舞踊学校に通うことになったのでした。
自宅から東京まで通ういながらのレッスンで、場所は歌舞伎座の裏にあった学校。
その学校でバレエやタップダンス、日本舞踊、歌のレッスンを受けていた草笛さんで、レッスンを受けていると体がみるみる鍛えられ変わっていくのがわかったとか。
そして、彼女はご自身で決断して学校を中退し、正式に松竹の音楽舞踊学校に入学したのでした。
草笛光子の名前の変更
この女学校の頃に、草笛さんは母方の祖父母の養子になったこたことから、父方の「冨田」から「栗田」の苗字に変られました。
そして、松竹の音楽舞踊学校を卒業する直前に芸名を考えることになって、一人の先生が「草笛」を提案してくれたことで「草笛光子」となったそうです。
草笛光子の学歴
草笛さんは高校を中退して音楽舞踊学校に入学したので、最終学歴は中卒になります。
1949年11月に高校を中退して音楽舞踊学校に入学し、1年後の1950年に松竹歌劇団に5期生として入った草笛さんでした。
次のページからは、草笛光子さんの「実家の家族」→「結婚後の家族」→「現在」→「略歴」などを紹介しています♬
いつも私で生きていく (小学館文庫)
U-NEXTなら登録も解約も超簡単!
ちゃちゃと登録出来て、31日間で観たいあれこれを観ちゃって解約OK!
NHKもね!ヾ(≧∇≦*)/
↓で確認してね(๑❛ᴗ❛๑)
骨壷を入れた箱を風呂敷で背負って空襲下を逃げた時に、妹の骨が背中でカタコト鳴っていた、その音は大人になっても忘れられないそうです。