※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

柳田将洋の夢は建築士だった!小2の小岩クラブから大学までのバレーのあゆみやエピソードを紹介!

Sponsored Links








高校時代に「プリンス」と呼ばれていた柳田将洋選手で、生れた時から輝いていたのかと思いきや、中学時代はプレーの事で悩み、「下積みの暗い時代」とインタビューで答えていたようです。

どうしたんでしょうね?

そんな柳田将洋選手の生い立ちを「柳田将洋の夢は建築士だった!小2の小岩クラブから大学までのバレーのあゆみやエピソードを紹介!」と題しましてお伝えいたします。

旧タイトルは「柳田将洋のプロフィールと経歴は?高校・大学での実力も調査した!」の記事を2023年4月にリニューアルしました。
この記事でお伝えしていることは執筆時のものであり、現在では異なる場合がありますのであらかじめご了承の上、お読みくださいませ(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
また、情報に誤りがあった場合など、ご指摘いただけると幸いです




>>”もしもし”でお悩み解決できるかもよ♪ココナラ

柳田将洋のプロフィールと学生時代までのバレーの略歴

出典:柳田将洋Instagram

柳田将洋のプロフィール

名前:柳田将洋(やなぎだ まさひろ)

生年月日:1992年7月6日

年齢:30歳(2023年4月執筆時)

身長:186㎝

体重:80㎏

血液型:O

利き手:右

趣味:ゴルフ、買い物、散歩

好きなスポット:葛西臨海水族園

ポジション:アウトサイドヒッター

柳田将洋の学生時代に所属したチーム

小学時代:江戸川区 小岩ジュニアバレーボールクラブ

中学時代:安田学園中学校男子バレーボール

高校時代:東洋高等学校男子バレーボール部

大学時代:慶應義塾体育会バレーボール部

柳田将洋の幼少期~小学時代/小岩クラブから始まったバレー人生!

出典:https://jiyuni.blog.ss-blog.jp/2015-09-24

1992年に小岩でうまれた柳田選手で、誕生した時の身長は54㎝で体重は3414gだったとか。

難産で生れるまで2日もかかったそうです。

すくすく育った柳田選手は、控えめな性格の人見知りで人前に出るのが苦手なお子さんだったようです。

電車が大好きで、おもちゃの電車も集めていて、きかんしゃトーマスは全種類持っていたとか。

当時秋葉原にあった交通博物館には数え切れないくらい通っていたそうです。

柳田選手の未来の仕事について鉄道関係に進むかもしれないと当時のご両親は思っていたようですよ。

当時のご両親は、地域のクラブチームでバレーをしていたそうで、柳田選手は幼稚園時代から、母親のママさんバレーについて行っていたそうです。

7歳になった頃、バレークラブに入部するために母親に連れられ、ある小学生のチームの見学をした時、そのクラブの指導者が椅子を放り投げクラブの子供を怒っていた光景でした。

自宅に戻った柳田選手は泣きながら「バレーは絶対にやらない!」と言った為、ご両親は無理強いはせず、「やらなくていいよ」と言ってそのクラブの入部を見送ったそうです。

その半年後の小2の時に、また母親に誘われたことがきっかけで「小岩クラブ」に入部した柳田選手でした。

高学年になると小岩クラブには週5練習に通い、宿題は休憩時間に済ますというストイックな生活をおくっていたそうですが、ご自身は団体競技を友だちと一緒に楽しんでいる感覚で楽しかったんだとか。

そして、自ら練習をして、着々とバレースキルを磨き、小5の2003年の時にはエースとして出場し、全日本バレーボール小学生大会で優勝を果たしたのでした。

小学生プレーヤーとしてはレベルが高かった柳田選手でしたが、飲み物やお弁当などを忘れることが多く、注意を受けていたそうです。

ハイレベルなプレヤーの柳田選手の夢は、父親と同じ建築士になることだったとか。

時間があれば、黙々と設計図や絵を描いていたそうで、美術館にもよく通っていたそうな。

柳田選手が小学校を卒業し、中高に進学をしても、試験前になると「小岩ジュニアバレーボールクラブ」で練習をしていたようです。
当時の遠山徹也コーチに、「1日でもバレーをやらないとダメなんですよ」と言って練習をしていた柳田選手でした。

柳田将洋の中学時代/暗い下積みのバレー時代

出典:柳田将洋Instagram

墨田区にある中高一貫校の安田学園中学校に進学した柳田選手でしたが、バレー部での柳田選手の身長は高くなかった為、ネットの高さに苦しんだようです。

常に2枚のブロックに対して正面から立ち向かっていたそうで、当時の自分には力がないと、それを突破する技術もそれ以外の武器もなく「下積みの暗い時代」を過ごしていたようです。

当時を振り返った柳田選手がそうインタビューに答えていました。

中学1年で入学した時は、浅野博亮(あさのひろあき)選手がいた三郷中学校に負けたことでベスト8で終わり、中2の時は関東大会止まり。

名を馳せた選手を遠くから見上げては「こういう選手が将来は上で活躍するんだろうな」と思うだけだったそうな。

この頃は、野球・サッカーやバスケにも興味が湧いてたそうですよ。

柳田将洋の高校時代は「いい大学に入っていい会社に就職したい」と思っていた

出典:沙夜@SakuLam0811ykya

同じ中学の先輩がいた東洋高校に2008年に進学した柳田選手。

その先輩が東洋高校に進学してからの成長ぶりを目の当たりにした柳田選手は、自分も同じ高校に行ったら上手くなれるんじゃないかという思いと、東洋高校の”選手が自分たちで考えてバレーをしている”イメージもあったことから、偏差値が62 – 67(執筆時の偏差値)の東洋高校への進学を決めたとのこと。

東洋高校では、柳田選手のイメージ通り、「どうしたいか」「どうすべきか」を選手同士で議論しながら練習を展開していて、コートに6人ずつ入るゲーム形式の練習でも、「どうやって点を取ればいいか、なぜ点が取れなかったか」を考え、常に「相手のブロックに対してどう攻めれば得点できるか」も意識しながら練習を重ねていたそうです。

柳田選手の「ジャンプサーブ」もこうした練習を積み重ねた結果だったとか。

結果に繋がる過程を考えプレーすることで、自信がつき、それが確信に変っていったそうな。

2009年3月:高1でエースで出場した春高バレーで準々決勝まで駒を進めることが出来た東洋高校。

都城工業に準々決勝で敗れるも、柳田選はストルーキー賞を受け、ユース(U18)の日本代表候補にも選出されたのでした。

2010年3月:高2の春高バレーでは優勝を果たしました。

当時監督をしていた北畠勝雄氏が体調を崩してしまったそうで、病気になりながら指導をしてくれた北畠監督の恩返しに優勝を目指したとのこと。

そしてその結果、見事に優勝して、北畠監督を胴上げすることが出来たのでした。

2011年3月:高3の春高バレーの結果は3位でしたが、この時代は、柳田選手にとって世界へ続く扉が開かれたのかもしれません。

柳田将洋の高3の『3年生を送る会』でのエピソード

柳田選手が高校を卒業する前に、バレー部の「3年生を送る会」で、「小学校のときから、ずっとバレーバレーで、長かったけど、お弁当を作ってくれたり、応援をしてくれたり、本当にありがとう」と言って、柳田選手の母親をお姫様抱っこをしたそうです。

それに習って他の3年生たちも母親をお姫様抱っこをしたことで、「母親をお姫様抱っこしての記念撮影」となったようです。

そのエピソードがあった翌年からは、「お姫様抱っこ」がバレー部の伝統行事になったとのこと。

柳田将洋の高校卒業後の進路

この頃の柳田選手は、バレーボールは好きだけど、それで生活をするとは別と考えており、「いい大学に入っていい会社に就職したい」と思っていたそうな。

当時の監督は「自分の耳で聞いて自分で判断しなさい」と言って、柳田選手にお声がけをした全ての大学との面談の場を用意してくれたのでした。

柳田選手は、大学へ進学するにも「バレーボールと将来のためになる勉強のどちらも並行してできる学校」と当時は考えており、最後にお声掛けをしてくれた大学の慶應義塾に決定したそうです。

その決定に、監督も両親も柳田選手を尊重してくれたそうです。

柳田将洋の大学受験エピソード

幼少期から忘れ物が多かった柳田選手は、なんと慶應義塾大学AO入試の当日に受験票を忘れちゃったそうな。

母親に受験を持って来てもらおうかと一瞬思ったそうですが、自分でとりに戻り事なきを得たんだとか。

「忘れっぽいとこが弱点だ」とインタビューでも明かしていた柳田選手でした。

柳田将洋の大学時代は料理部に所属

多くの推薦の誘いを受けた柳田選手は、面接や書類の準備は大変で、合格するか分からないプレッシャーもあったようですが、慶大のAO(アドミッション・オフィス)入試にチャレンジし、2011年4月慶應義塾大学環境情報学部へ進学をしたのでした。

大学3年の2013年4月に日本代表登録メンバーに初めて選ばれた柳田選手。

その後は大学のバレーボール部に在籍しながら日本代表の活動も続け、多忙な大学生活をおくるのでした。

そして、大学4年の2014年10月に、Ⅴ・プレミアリーグのサントリーサンバーズに入団をすることを発表されたのでした。

日本代表に招集され活動しても、授業やリポートは免除されなかったそうな。

「大学は自分で学びに行くところ。大学に入って(人生は)バレーだけではないんだな、と感じた。たくさんの仲間や先輩、後輩、OBの方に出会えて、色々な話をして、視野が広がった。最善の選択だった」と思い2015年に卒業した柳田選手でした。

卒業後も柳田選手のバレーの道は続いているのでした。

柳田将洋の大学時代のバレー

大学3年生の時に日本代表候補に選ばれた柳田選手。

「なんで選ばれたんだろう?」と当時はとても戸惑いモヤモヤしていたそうです。

それと同時に、ご自身がコートに立つためには、「同じポジションの選手と比べて秀でた武器とはなんだ?」と自問自答を繰り返した結果の答えは「サーブ」だったとか。

答えを得た柳田選手は、「サーブに磨きをかける」事を重点とし練習を重ねたのでした。

そして、その練習は身を結び、日本代表の試合で少ないチャンスを見事なサーブで印象付けた柳田選手は、日本代表として戦う中で次第に大きくなった「バレーボール選手への道」だったようです。

柳田将洋のキャンパスライフ

進学した大学は、柳田選手曰く、「みんな頭がいいから普通に話す会話の中に知らない単語がいっぱいあった」とのこと。

知らない言葉が出てくる度に「それ何、どういう意味?」と質問していた柳田選手。

質問された相手は、柳田選手をバカにすることなくキチンと答えてくれていたそです。

大学という多種多様の集団で、いろんなことを吸収した柳田選手の大学時代はとても楽しかったそうですよ。

ただ、慶應のバレーボールでは後悔が残っていたそうで、キャプテンなのにチームには何も言わず、何も残さず自分のことだけを考えてたことだそうです。

この時代は、料理部に所属していた柳田選手ってご存じでしたか?

柳田選手曰く、「先輩の家に行って料理をする活動が料理部」だったとのこと。

豚キムチなどを作っていたようです。

 

「柳田将洋の夢は建築士だった!小2の小岩クラブから大学までのバレーのあゆみやエピソードを紹介!」と題して、柳田選手の生い立ちをお伝えしましたが、この記事はこれでおしまいです。

ここまでお付き合いをして頂き、ありがとうございます。

この記事の参考元:江戸川区エドスポ・慶應義塾体育会バレーボール部 Official Web Site・江戸川区 小岩クラブ男子バレーボールクラブ・テラコヤプラス2023.01.24・朝日新聞DIGITAL2020年9月29日・朝日新聞DIGITAL2020年3月23日 ・オリンピックチャンネル2020 8月 04 ・Olympics・女性自身2016/05/31・4years.2019/09/28・4years.2019/09/27・4years.2019/09/26・Number Web2018/03/31 ・みんなの高校情報・スポブルオンラインインタビュー2020年5月・ほか

合わせて読んでネ♪

Sponsored Links








コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

こんにちは! あんびと申します。 犬が好きすぎて数頭のわんこを保護し、 ペット看護師の資格とペットセラピストの資格も取得して、 犬のために生きているような日々を過ごしているおばちゃんです。 こんな私ですが、よろしくお願いします。