目次
関田誠大のバレーの歩み
関田誠大の二者択一を迫られた葛飾区立中之台小学校時代
関田選手がバレーを始めたのは小1で姉の影響からだったそうです。
東金町ビーバーズに所属し、週6日練習に通っていてもポジションは限定していなかったとか。
当時の関田選手はバレーボールの他にスイミングスクールにも通っていて、多忙な小学時代を過ごしていたようです。
関田選手が小3の時に両親から「(バレーか水泳の)どちらかを選択しなさい」と言われバレーを選択したとか。
東金町ビーバーズではポジションを限定していなかったのですが、小5でセッターを経験し、小6でアタッカーを経験したそうです。
当時所属していたチームは何度も全国制覇していて、練習はとにかく厳しくて、バレーの技術はスキルアップしても全然楽しくなっかったそうです。
関田誠大の球拾いもした駿台学園中学校時代
中学の強豪の駿台学園に進学をした関田選手で戸惑ったことが3つあったそうで、一つ目は練習が厳しかった東金町ビーバーズより更に練習が厳しいことだったようです。
二つ目は、小学時代には友達感覚で接してきたバレー仲間に、中学からの「あるある」で先輩と後輩の壁が出来たことで、三つ目は夏場になると坊主にしなくてはならなかったことでした。
この3つの中で一番戸惑ったのは中学からの「あるある」だったとか。
中1時代は球拾いをせっせとし、中2年はリベロを務め、中3は正セッターを務めていたそうです。
この高校でも全国制覇した関田選手の元に多くの高校からお声がけがあり、選んだのは東洋高校でした。
関田誠大がオリンピックを感じた中3
2008年開催された北京オリンピック世界最終予選で、全日本男子バレーチームが出場権を獲得する様子をテレビで観た関田選手。
関田選手曰く、「チーム、体育館が一体になっていて、それがすごく『いいな』と思いました」と。
そして、その瞬間にオリンピックを間近に感じたそうです。
関田誠大が小学時代から縁があった柳田将洋と一緒の東洋高校時代
関田選手と柳田将洋選手の母親同士が仲良しで小学時代から縁があったそうで、その縁があった1学年上の柳田選手から「東洋来ない?」って誘われたことが決め手になったよそうです。
柳田選手からのお声がけがある前は、駿台学園高に進学する気がなく、東洋高校か東亜学園高等学校のどちらかにするか迷っていたんだとか。
小学時代からの縁の柳田選手のことは「マサ」と呼ぶ間柄で、進学しても「マサ」と呼びため口だったんだって。
関田選手は、1年生からレギュラーでセッターに選出され、先輩の柳田選手と共に活躍した2010年3月の春高バレーで初優勝を経験したのでした。
3年生が卒業した3月にキャプテンになった関田選手でしたが、東日本大震災の影響で、計画停電や体育館の使用制限が重なったりして、毎日の練習は1時間程度しかできなかったとか。
その限られた中で練習をしていましたが、結果を出すことが出来なく悔しい思いをし「大学では絶対に優勝する」と強い決意を抱いて卒業をしたそうです。
関田誠大が鍛え過ぎておかしくなった中央大学時代
関田誠大が中央大学を選んだ理由
総合大学のバレーで日本一を目指せる強い大学は中大だと思っている時に、同じ歳で仲の良かった今村貴彦選手が中央大学に行くと耳にしたことで、中大に行くと決めたようです。
関田選手は体育の教員になろうとは思っていなかったので、バレーが強くても体育系の学部がある大学ははじめからスルーしていたんだとか。
関田誠大の先輩とのコミュニケーションに悩んだ大学1年~2年
大学に進学すると、高校時代では取り組むことがなかったウェートトレーニングを専属の菊池加奈子トレーナーが作成したメニューを実施し、それをこなすことでバレーの動きにつながり、できることが増えるようになったそうな。
関田選手が入学した年には、松永理生氏が監督に就任。
その監督が打ち出したのはポジションにこだわらず、コートの至るところから攻撃を仕掛けるバレースタイルで、様々な戦術に挑戦した関田選手でした。
1年生での春季リーグからスタメン出場した関田選手でしたが、監督の指示に対して納得がいかなければ「面白くないです」と言うこともあったそうです。
自分の主張はきっちりする関田選手でしたが、コミニュケーションと取ることには苦労していたとか。
セッターというポジション柄コミュニケーションは大切ですが、先輩たちとどうコミュニケーション取ればいいのか大変だったみたい。
関田誠大の心強い存在が現われた大学3年
3年になると気持ちの余裕が出来た関田選手で、中大のバレーボールチームをどうやって強くすか?という気持ちが芽生え、下級生と積極的にコミニュケーションを取るようになったそうです。
この時代には石川祐希選手が入学してきて「最初からものすごく目立っていた」とか。
石川選手と一緒にプレーしたセッターの関田選手が思ったことは「どんなトスでも上げれば決めてくれる」ことだったそうな。
これは石川選手とプレーした選手が口々に言っていることだそうで、関田選手もそう思い石川選手が心強い存在になったのでした。
実際、石川選手とプレーした2年間は、インカレ優勝も含め数多くのタイトルを制したのでした。
関田誠大の強さはが圧倒的だった大学4年
石川祐希選手がコートにいるという存在だけで相手チームの「圧」になる事で、戦略を立てて実践する事が楽しかったキャプテン・関田選手の大学4年だったそうです。
キャンパスライフを振り返ると(2015年)12月19日の天皇杯が一番印象に残っているとか。
サントリーサンバーズとの試合では、関田選手が絶妙な配分で攻撃を展開し、チームのいいところを出せた試合になったようで、Vリーグのサントリーを中大がセットカウント3-1で勝利でぃた試合で、この試合は本当に楽しかったとのこと。
関田選手はの高校時代は柳田将洋選手と共に、大学時代は石川選手と共にプレーし、そんな学生時代を振り返ると「僕は本当に仲間に恵まれた」とインタビューに答えていたようです。
2015年12月1日にパナソニック・パンサーズに内定した関田選手。
この時の同期は今村貴彦選手と山内晶大選手。
関田誠大が後輩に暴露された大学エピソード
中大の後輩がブログで「めちゃくちゃ怖かった」と関田選手のことを暴露したのでした。
「普段はシャイで可愛いところもあるし、練習になると自分に厳しく、試合のときはチームをまとめるキャプテンとして、凛とした姿を見せてくれた」
けど、凄く怖かったらしい。
とにかく怖かったらしい。
その他で後輩に暴露されたことは、「筋肉がすごい人で1位」・「LINE中毒な人で3位」で、在学中に体を鍛え過ぎておかしくなったんだとか。
ストイックな関田選手だったようですが、何事もやり過ぎは良くないことを「後輩」に我が身通して教えたのかもしれませんね笑
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