元男子バレーボール選手で日本代表でもあった福澤達哉(ふくざわ たつや)選手。
現役時代の福澤達哉選手は輝かしくもあり華々しくもある経歴をお持ちでした。
※最高到達点は355cmで日本一。
※最高到達点=選手がジャンプしたときに地面から上に伸ばした指先の高さのこと
はずば抜けたジャンプ力から「鳥人」と呼ばれ、時には「空中の支配者」と呼ばれることも。
そんな素晴らしいバーレーボーラは現在引退して、サラリーや解説者としてご活躍されています。
こんな素晴らしい選手のことを残さないのはもったいないので、当サイトの「福澤達哉のプロフィールや経歴は?子供の頃から目指していた職業も!」の記事の内容を2023年6月にリニューアルし、タイトルを「」と改めてお届けすることにしました。
この記事でお伝えしていることは執筆時のものであり、現在では異なる場合がありますのであらかじめご了承の上、お読みくださいませ(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
また、情報に誤りがあった場合など、ご指摘いただけると幸いです。
目次
福澤達哉のプロフィールと学歴
福澤達哉のプロフィール
生年月日:1986年7月1日
年齢:37歳(2024年6月時点)
出身地:京都府京都市
身長:189cm
体重:86kg
血液型:B
利き手:右
ポジション:OH
スパイク:357cm
ブロック:330cm
バレーボール界でのニックネーム:鳥人・空中の支配者
最高到達点(指高):355cm(245cm)
所属したチーム:パナソニックパンサーズ(2009-2021年)・ブラジル/マリンガ(2015-2016年)・ パリ・バレー(レンタル移籍2019-2021年)
日本代表 -:2005年・2008年-2013年・2016年・2018-2021年
引退:2021年7月14日
福澤達哉の学歴
京都市立下鳥羽小学校
↓
京都市立伏見中学校
↓
洛南高等学校
↓
中央大学
福澤達哉のバレーの歩み
福澤達哉の幼少期~水泳とバレーをしていた京都市立下鳥羽小学校の小学時代
幼少期の頃からスポーツ万能で、走る・泳ぐ・投げるなどほとんどのスポーツは時間をさほどかけなくてもできるようになったそうです。
この頃は水泳を習っていた福澤選手でした。
福澤選手の子どものころから変わらぬ行動指針は「まず動いてみる」でだったそうで、小4からバレーを始めていた2歳上の兄と同じ道を進み、ご自身も小4から兄と同じスポーツ教室でバレーも始め、小学校を卒業するまでは両方をしていたんだとか。
福澤達哉のジャンプ力の礎ができた中学時代
京都市立伏見中学校に進学した福澤選手は、どの部活に所属するかを迷ったのですが、兄が所属しているバレー部に結局入部したそうです。
兄が中3の時にJOC(ジュニアオリンピック・カップ)の京都選抜に選ばれたことで、ご自身も選抜に選ばれたいという気持ちが湧いてきたとか。
当時は、兄と年齢が近いこともあり、福澤選手にとって兄は一番のライバルだったとのこと。
コーチは中学のOBで元JOCの京都選抜選手で実力のあるコーチだったようで、基礎的な練習がかなり厳しく、思い出すだけで憂鬱になるそうですよ。
ですが、そのコーチのお陰で中学時代にしっかりとした体作りができ、兄と同じく福澤選手も中3の時にJOCの京都選抜のメンバーに選ばれ初の全国大会を体験でき、中学選抜のメンバーにも選ばれ、そこで清水邦広選手に初めて会ったのでした。
体が大きく、すごいパワーがあって目立っていた清水選手だったそうな。
福澤選手は、ジャンプだけは誰にも負けたくない気持ちが強かったそうで、ジャンプの練習をしていた成果が出て、選手中トップの最高到達点を記録したそうですよ。
これだバレーの練習をしていたのに成績はオール5で優秀だったようです。
それは、“バレーボール馬鹿にならない”という信念のもと、勉強にもしっかり取り組んでいたとか。
福澤達哉の文武両道の高校時代
進学先に当時の”京都選抜に選ばれた選手がほぼ100%進む”と言われていた洛陽工業高校を勧められていたようです。
当時の福澤選手は「スポーツ馬鹿にはなりたくない」という考えを持っていたため、全国有数の進学校で、スポーツにも力を入れている文武両道を掲げる洛南高等学校(らくなん)を選んだのでした。
今では洛南高校と言えば”バレーの強豪校”のイメージがあるかもしれませんが、福澤選手が入学した当時は”京都府内でもベスト4に入るか、入らないかというチーム”だったそうな。
このバレー部でエースとしてご活躍し、3年の時には主将としても活躍をし2004年のインターハイで優勝で貢献したそうです。
バレーの練習は日々のみだけではなく、長期休暇期間には高野山での勉強合宿もり、勉強をする時間は限られたことで、”いきたい大学へ進学するために何が必要か?”と考えいたそうです。
その結果、各テストで高得点をとって内申点を上げることと考え、テスト前になると、勉強するスケジュールを立て、それに従って凄まじい集中力を発揮して短い時間でひたすら勉強したそうです。
この方法に至ったのは、2歳年上の兄が大学受験の為の勉強をしている姿を見て、そのやり方は自分には出来ないと思ったことがけっかけだったとか。
その方法は成功し、スポーツ推薦ではなく指定校推薦で希望する大学に進学できたとのこと。
福澤達哉の日本代表で活躍した大学時代
中央大学法学部法律学科に進学した福澤選手。
1年の2005年に日本代表に初選出されワールドリーグで代表デビューを果たしました。
そして、3年の2008年には日本代表に再選出となり、盟友の清水邦広選手と共に最年少で北京オリンピック出場を経験。
同年パナソニックパンサーズの内定選手となりましたが、福澤選手はバレーのことは考えず、自分がしたい”仕事”があるかないかを考えて選んだんだとか。
福澤達哉のアスリートの歩み
大学を卒業した2009年にパナソニック パンサーズに所属し、数々の栄冠を手にしてきた福澤選手でした。
福澤選手は五輪出場で活躍することを目標にしていたのですが、2012年開催のロンドン五輪は最終予選で敗退し、本大会出場を逃したことで危機感を募らせ「このままじゃ代表チームから声が掛からない」と同時に、ご自身の年齢的に最後の五輪と考えていたリオデジャネイロ五輪には選出されないとも思ったようです。
そして、頭に浮かんだことが”海外挑戦”でした。
当時は”海外挑戦”すること=会社を辞めプロ選手になる道しかなかったそうです。
ですが、福澤選手は会社に籍を置いたまま海外挑戦する道を作り、自ら先駆者となったのでした。
既婚者で小さな子供がいる生活ですが、妻が「家庭は私が守るから挑戦しておいで」と言って、福澤選手の背中を押してくれたのでした。
翌年に「2016リオデジャネイロオリンピックバレーボール世界最終予選兼アジア大陸予選大会」を控えた2015/2016年シーズンにブラジルのマリンガチームに単身で向かった福澤選手。
惜敗したある試合で、プライドをかなぐり捨て一心不乱に力をふりしぼったプレーをした福澤選手でしたが、負けた瞬間、今まで感じたことのない激しい感情で体が震え、奥歯が割れそうになるくらい悔しさをかみしめた経験をしたそうです。
その経験から「今まで目の前の一戦にここまで気持ちを込めてプレーをしていたか?」と自問自答を繰り返したとのこと。
8ヶ月後、日本代表に再選出されましたが、男子バレーボールはリオ五輪出場権逃したのでした。
目標を失い「先が見えないし、『今年で終わりかな』」と現役引退を考えた福澤選手に清水選手から「一緒に東京五輪を目指そう」と言われ、その一言でバレーを続ける覚悟を決めた福澤選手でした。
そして、福澤選手は2019~2021の2シーズンもフランスリーグのパリ・バレーにレンタル移籍で渡仏して2021年開催の東京オリンピックに向けて励んだのでした。
ですが、髙橋藍選手や大塚達宣選手などの若手の台頭があったことで、福澤選手は最終メンバーから落選。
そのことがきっかけとなり、引退を決意されたようです。
福澤達哉の盟友は清水邦広
中学時代に出会いそれからずっとライバルであり、親友だった清水選手。
2008年の北京五輪で日本代表として清水選手と共に出場し、どんな苦しい時代も常に日本代表の中心であり続けられたのは清水選手がいたから。
「何も言わなくても信頼しているし、困った時に相談できる。まるで家族のような存在」だった清水選手。
最も大切な盟友。
清水選手が選手生命を脅かされるような大怪我の時も支え合い、二人の集大成として目標にしていた「東京五輪」で合い言葉は”東京五輪で「現地集合」”でした。
そして、そんな2人が集大成として目指し約束した”東京オリンピック”。
”東京五輪で「現地集合」”を合い言葉に、清水選手を日本に残して、ご自身のプレーを磨く為に渡仏。
ですが、大会直前に日本代表から落選してしまい、清水選手との約束を果たす事が出来なくなったのです。
清水選手との約束を果たせなかった福澤選手は引退を決意。
落選の結果を知った清水選手は「一緒にやりたかったな」と気持ちを吐露した後、福澤選手より落ち込み、引退会見で清水選手に対する思いを述べた時は、涙で言葉を詰まらせた福澤選手でした。
福澤達哉の引退と現在
福澤達哉の引退
リオ五輪最終予選の直前に再び日本代表入りを果たすも、結果が出ず、引退への決意を固めようとしていた福澤選手でしたが、シャイで言葉数が少ない清水選手が「東京まで、もう一度やろうや」と言った言葉に突き動かされ、福澤選手は覚悟を決めたたそうです。
「共に東京五輪」を胸に、マインドを切り替え、打つだけではなく、苦手だった守備の練習を飽きるほどの繰り返えしたのでした。
その練習ぷっりは周囲も驚くくらい、当時の福澤選手は”別人”になっていたんだとか。
“攻撃型”だった福澤選手は”守備のスペシャリスト”としてに変貌を遂げていたのでした。
努力の甲斐もむなしく、20201年6月21日に発表された東京五輪出場選手12名に福澤選手の名前がなく、集大成として挑んできた東京五輪への挑戦が終わってしまったのでした。
五輪終了後の8月14日に福澤選手の引退試合が行われました。
その試合は、福澤選手と清水選手のお二人が一緒にコートに立つのが”最後”。
試合後のセレモニーで、清水選手は「親友を通り越して、家族通り越して、これは恋愛以上、僕はもう結婚したいと思うぐらい本当に、福澤のことが好きです。これは言いたくないんですけど、本当にお疲れ様でした」と言い、強く抱擁した後、清水選手が用意したウエディングケーキにお二人は”入刀”したのでした。
サラリーになる福澤選手と、現役を続ける清水選手の関係はこれからも続いていくことでしょう。
2021年8月14日は、日本のバレーボール界を引っ張り、そして活躍した福澤達哉選手がコートを去った日となり、競技を始めてから約25年のバレー人生に幕が下りた日でもあります。
澤達哉コメント
いつも多大なるご支援とご声援ありがとうございます。
ご存知の通り、私の力及ばず東京オリンピックのメンバーから落選しました。
これにより自身のオリンピックへの挑戦が終わり、清水(邦広)との約束である『現地集合』を叶えることはできませんでした。勝負の世界がシビアなことは誰よりも理解していますが、正直、まだ完璧に気持ちの整理はできていません。
東京五輪を目指すと心に決めてから、一年一年勝負を仕掛け、常にベストの選択をしてきました。結果に対する悔いは残っても、それまでの過程でやり残したことはありません。
私の思いは、共に同じ道を歩んできた清水に託しました。これまで数多くの困難を乗り越えてきた彼なら、必ずやってくれると信じています。そしてもう一つ、お伝えしないといけないことがあります。
非常に難しい決断ではありましたが…
私のバレーボール選手としての挑戦はここで終わり、現役を引退することにしました。
競技をはじめてから約25年。
紛れもなくバレーボールは私の人生そのものでした。
これまでの過程において、何事にも代え難い貴重な経験を積むことができました。
現役を終える最後まで、日本代表選手として世界と戦い、引退出来ることも誇りに思っています。もう一度パンサーズで戦う姿を期待してくださっていた皆様。
その期待に応えることができず申し訳ありません。
パンサーズではかけがえのない仲間と出会い、彼らと共に輝かしい成績を残すことができました。
また、自身の目標とそれに向かうロードマップについて、きちんと耳を傾けて理解してくださり、ブラジルリーグやフランスリーグへの3度にわたる海外挑戦を、全力でサポートしてくれました。
非常に恵まれた環境で、バレーボールをさせていただき、選手としても人としても大きく成長できました。パンサーズは最高のチームです。このチームでなければ、今の私はいないと思います。これからもパンサーズが日本のトップを走り続けられるように、熱い声援をどうぞよろしくお願いいたします。
今後はバレーボールの世界と少し離れ、次なる目標に向けて新たな挑戦をしていくことになります。
バレーボールを通して得たかけがえのない経験、共に戦った仲間、そしていつも背中を押してくれたファンの皆様。この大きな財産を持って、これからも自分らしく、常に前を向いて、自分の限界に挑戦し続けたいと思います。これまで私を支えてくれた皆様方。
本当にありがとうございました。
最高のバレーボール人生でした。引用元:福澤選手の引退のお知らせ | ニュース | バレーボール | パナソニック スポーツ | Panasonic
福澤達哉の現在
社業に専念し「世界に通用するビジネスマン」を目指している福澤元選手(以下、福澤氏)は、選手時代はパナソニック オペレーショナルエクセレンス(株)”広報部”に在籍していたそうで、引退後も引き続き同部署に在籍しているそうです。
福澤氏の担当は、主に従業員向けのポータルサイトの運営やオンライン・冊子型の社内報の編集など、パナソニックグループ全体に向けたインターナルコミュニケーション(広報活動)なんだとか。
担当するのは福澤氏を含め数名しかいなく、取材→撮影→執筆→校正→レイアウト作業を一人でしているとのこと。
毎日何かしらの“期限”に追われている日々が福澤氏の日常になっているようです。
また、社業のほかに、バレーボール中継の解説業にも積極的にチャレンジしている福澤氏。
その解説は好評なんだとか。
”今しかできないことを積み重ねている”福澤氏を解説者として拝見できるなんて嬉しいですね♪
大学では法学部法律学科に在籍していて弁護士を目指していた福澤氏ですが、現在のお仕事は第二の天職かも。
福澤達哉の現在の家族
福澤達哉の結婚相手
福澤氏の結婚相手は、中央大の時の先輩で年上の女性と2010年8月にご結婚されたんだとか。
その他の情報は一切公開されていないようです。
福澤達哉の子供は4人で全員女の子
2011年9月に第一子となる長女が誕生し、2014年頃に次女、2017年2月に三女、2019年4月に四女がご誕生されています。
奥さまからは「子どもには甘い」と言われている福澤氏でした。
福澤達哉の現在の家族構成
もうご存知でしょうが、ここで現在の福澤氏のご家族は、妻・長女・次女・三女・四女の構成の6人家族。
これで福澤元選手の歩みをおしまいにしますが、追記がある時は静かにする予定です。
お付き合いを頂きまして、ありがとうございました。
この記事の参考元:当サイト旧記事「福澤達哉のプロフィールや経歴は?子供の頃から目指していた職業も!」・日本の学校・ 4years. 2020/10/14・ピックアップフェイス・日本の学校・FNNプライムオンライン2021年8月17日・ Number Web2022/11/18・ Number Web2021/07/15・パナソニック スポーツ・THE DIGEST2021.07.15・月バレ.com2021.07.14・【SPAIA】スパイア2017 5/8・ライブドアニュース2023年2月3日・パナソニック ニュースルーム ジャパン2024年4月26日・ほか
コメントを残す