西田有志のバレーの歩み
西田有志の幼少時代のあゆみ
2000年1月30日に三重県四日市市芝田 2 丁目にある市立四日市病院で4220グラムで生れた西田選手。
元気いっぱいに育った西田選手は、保育園の年長組の5歳の時に当時は伊藤カズ子さんで、後に梅澤道夫氏が監督を務めていた大安バレーボールスポーツ少年団「大安ビートル」というバレーボールチームに入団しました。
2006年1月のことで姉や兄の影響もあり、バレーボールに興味を示しましが、ご自身は「やりたかったというよりは、バレーボールをすることが普通という感じでやり始めた」とインタビューで答えているようです。
小学生からしか入団できないチームでしたが、西田選手の場合は特別に入れたんだとか。
入団当初からサーブが入り周囲を驚かせていたそうです。
ご両親曰く、「野生児だった」と。
大安ビービートルは週 3 回練習(水・土・日曜)をしていたそうです。
因みに、当時の西田選手の身長はあまり大きくはなかったようですよ。
小学校に進学をしてもバレーボール熱は冷めなかった西田選手。
見よう見まねでいろいろなことをしてもそれが出来るので、周囲を驚かす存在でした。
小2になるとジャンプサーブを打つようになった西田選手でしたが、当時の監督は西田選手の肩を痛めたらいけないという思いから止めたそうです。
この頃から西田選手は”自分が今できる事を”常に考えていたようで、それからはスパイクのフォーム作りにタオルを使用して、タオルをブンブン回してフォームの研究をしたり、自分より身長の大きな選手に負けないジャンプ力を培うために、大安ビートルでの練習の休憩中に、隣にかかる弁天橋の地面から高さ2・6メートルをめがけ何度も飛び続け励んでいたとか。
小4になると本格的にジャンプサーブの指導を受けるようになった西田選手。
そして、小4の時にスタメンで全国大会出場を果たすことに!
その頃の身長は140㎝くらいだったにもかかわらず、小6に負けないくらいの強いスパイクを打っていたセンス溢れるちびっこバレーボーラーだったようです。
小学5からは、一つのポジションだけではなく、いろいろなポジションやプレーを全部こなしていたとか。
小6での身長は158㎝か160㎝くらいあったそうですよ。
西田選手が卒業文集に書いた夢は「社会人」で、今でも忘れられない言葉は「くさるな、あきらめるな、逃げるな」で大安ビービートルの伊藤カズ子監督が色紙に書いて贈ってくれたんだとか。
0歳/2006年6月:兄弟が所属する大安バレーボールスポーツ少年団の練習の見学をはじめる
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5歳/2006年1月:大安ビートルに入団
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9歳の小4/2009年6月:第29回全日本バレーボール小学生大会三重県大会で「大安ビートル」が優勝し全国大会出場が決定する
同年同学/8月:第29回全日本バレーボール小学生大会に出場
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11歳の小6/2011年9月19日:三重・滋賀男子小学生バレーボール交流大会出場
「大安ビートル」の主将をつとめる
同年同学/10月2日:三重県クラブバレーボール連盟会長杯で「大安ビートル」が優勝
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12歳の小6/2012年2月26日:北勢選抜チーム「北勢アタッカーズ」に所属し、第6回北勢バレーボール保々交流会に出場
同年小学校卒業後/3月:下呂温泉湯けむりバレー交流会に出場・「大安ビートル」卒団
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