「世界が認めたニッポンの大砲」と呼ばれた山本隆弘(やまもと たかひろ)元選手は、中2からバレーを始め、大学在学中に日本代表で選出され、日本人のバレーボーラーではお初のプロ契約をむすんでプロの選手になり、プロの道を開いた偉人。
現在は引退後は、持っているの教員免許を活かしたお仕事をしているのかと思いきや「T-FIVE CUP」を主宰してバレーの普及活動をしながら、解説者などで幅広くご活躍中。
そんな山本隆弘元選手のバレーの歩みからアスリート時代、そして引退後をお伝えしています。
後、実家のご家族た現在のご家族についてもサラッと綴っていますので、最後までお付き合いくだされば幸いです。
では、以下は山本氏としてお呼びしながら参ります。
この記事でお伝えしていることは執筆時のものであり、現在では異なる場合がありますのであらかじめご了承の上、お読みくださいませ(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
また、情報に誤りがあった場合など、ご指摘いただけると幸いです。
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目次
山本隆弘のプロフィール
山本隆弘のプロフィール
生年月日:1978年7月12日
年齢:44歳(2023年7月の執筆時)
出身地:鳥取県鳥取市
身長:201cm
体重:90kg
靴サイズ:32.0cm
血液型 B型
利き手:左
嫌いな食べ物:焼いたレバー
学歴:鳥取商業高等学校→日本体育大学
免許:教員免許
元所属先:パナソニック・パンサーズ(2001-2013年)
ポジション:OP、MB
指高:251cm
最高到達:355cm
所属事務所:スポーツバックス(個人事務所)
山本隆弘の生い立ちやバレーの歩み
山本隆弘の貧血だった幼少期~野球とサッカーに熱中した小学時代
山本氏は幼少期から、食べ物の好き嫌いがほとんどなかったようですが、貧血だった為、焼きレバーがしょっちゅう食卓に出ていたんだとか。
舌触りがモサモサしていることから焼きレバーが苦手なんだって。
朝ご飯は丼一杯くらいのごはん+味噌汁+野菜&お肉だったそうで、食後のヨーグルはは欠かさず食べて、牛乳は必ず飲んでいたそうです。
給食は二人前を平らげ、夕食は丼三杯くらい食べていたそうですが、ガリガリだったとのこと。
この時代は野球とサッカーに熱中していた山本氏でしたが、野球肘になったことで野球はこの時代でやめたそうですよ。
因みに、野球は父親の影響で始めたんだとか。
山本隆弘の身長が一気に伸びた中学時代
入学時の身長が158㎝で中1の秋には180㎝に伸び、中学を卒業する頃には192㎝にっ!!
猛スピードで伸びたからか、成長痛は感じなかったんだとか。
テレビで”毎朝、なわとびで二重とびをすると背がのびる”と聞いて、実行していたそうですが、これのお陰で伸びたのかは・・・?だそうです。
小学時代から夢中になっていたサッカー部に入部しようとした山本氏でしたが、サッカーが大人気で部員が200人くらいいたことで諦め、陸上部に入部し110メートルハードルをしていたそうですが、嫌気がさしていた中1の秋にお友達からのお声掛けがあったそうです。
この友達からのお声掛けがなければ茶道部に入部したそうですよ。
当時の男子バレー部の部員は一人しかいなくて、その友達は廃部をまぬがれるためにその時は、「とりあえず名前を貸して」と山本氏を誘ったみたい。
「名前だけならいいよ」と言うことでバレー部所属になった山本氏の中1の時は、名前だけ部員だったので、授業が終わるとサッサと帰宅していたそうです。
中2になり練習風景を見学に行くと・・・なんとおぉ!体育館のステージの上でした。
おおおおおおおぉーーーっ!ステージの上(*゚∀゚)
「男子バレー部の練習場所はここしかないんで」って言われて、なんか一緒に練習を始めちゃった中2の山本氏でした。
二人っきりのバレーの練習の手本は、女子バレー部の練習をマネしてしていたそうな。
マネを繰り返していくうちに段々と楽しくなり、いろんな事ができるようになったのでした。
中3になると「練習しなくていい部」と言うことで人気になり、部員が増え8~9人になっていたそうです。
そして、市の大会にも出場できるようになったそうです。
山本隆弘の高校時代
バレーボールの名門・鳥取商業高校から高身長であることから、お声がけがあり、その高校に進学することに決めたそうです。
中学を卒業してから土日は高校で練習した山本氏。
本格的にバレーを始めた山本氏は。基本を教わるとプレーをすることがどんどん楽しくなったんだとか。
当時の監督は、山本氏に「俺がひいたレールに乗れ」と言い、”鳥取県で男子バレーで日本代表になった選手いない”ことでなんとか代表まで上げたいと言うのが理由でした。
192㎝で左利きの山本氏は、1年の時からレギュラーでご活躍され、全国大会に出場。
そして、バレーボール全日本ジュニア代表や全日本ユース代表にも選出されたのでした。
高校時代の夢は「春の高校バレー」や「インターハイ」という目標意識が部員全員にあり、多い遠征試合や合宿に参加してバテバテになってもバレーを続けられたそうです。
高校時代はバレー糸筋で遊ばなかったそうな。
当時の山本氏は高校を卒業したら就職するつもりでいたそうです。
山本隆弘のバレー人生におけるターニングポイントになった大学時代
高校を卒業したら就職するつもりでいた山本氏でしたが、日本体育大学からお声がけがあり、バレーを続けることになったのでした。
大学の上下関係が厳しかったことに耐えられなくなった山本氏はバレーを辞めたのでした。
その当時は二度戻ることは考えていなくて、母校の高校の先生に企業で社会人としてバレーをやりたいと相談すると、その先生は全部の企業に声を掛けてくれたのですが、企業側は「大学を卒業してから」と言う返事だったそうです。
大学に戻らないと決めていた山本氏はそれから半年ほどトラックの運転手として働いていたそうです。
その仕事は鳥取の倉庫から京都の倉庫に荷物を下ろして、荷物を入れ替えて鳥取に戻るの繰り替えしでした。
始めのうちは楽しく仕事をしていた山本氏でしたが、ある時にご自身の未来地図を描いてみたら、トラックの仕事の未来はそのまんまって感じで変化なし。
もし、バレーをやっていたら?と考えるといろんな可能性がある未来地図が描けたそうです。
そうしたら、漠然と五輪出場も叶えることができるかも?と思えるようになり、その後は、勇気を振り絞って頭を丸めバレー部に頭を下げた山本氏でした。
しばらくは門前払いでしたが、再入部を認められても誰も口をきいてくれなく、ボールにも触れさせてもらえなかったそうな。
約2ヶ月間は、練習が終了し、部員が帰った後に一人で練習をしていたそうですが、同級生が一緒に練習に付き合ってくれるようになったそうです。
山本氏が大学に戻りバレーをやりたくなった気持ちを高校の恩師に言うと、「どんな時でもお前の背中を押してやるから、頑張ってこい」と言ってくれたことで、本気で戻ることを決心し、戻った大学で辛い思いをしても耐えられたそうです。
山本氏曰く、「バレー人生におけるターニングポイント」だったとのこと。
山本隆弘のアスリートの歩み
高校時代からパンサーズはずっと山本氏にお声がけをしていたそうですが、当時は「大学の4年間で気持ちがどうなるか分からないから決められない」と言っていたのですが、ずっとお声がけが続いていたそうです。
大学卒業後は多くの実業団からお声がけがあったそうですが、それでもすっとお声がけしてくれたパンサーズ。
大学を卒業してから、松下電器産業株式会社に入社し、パナソニックパンサーズに所属し活躍していた山本氏は、日本代表でも2003年のワールドカップで、ベストスコアラーとMVPを獲得するなど日本のエースとして大活躍したのでした。
そして2004年になると日本初のプロ契約を結び、引き続きパンサーズで活躍と同時に日本代表でも。
山本隆弘のプロ契約
先にもお伝えしましたが、2004年に日本初のプロレス契約をし、プロのバレーボラーとして活躍を始めた山本氏ですが、これには理由があったようです。
トレーニングや練習を重ねるうちに肩が悲鳴をあげたそうで、医師の診察では「すぐ手術」で腱板(けんばん)含めて7箇所痛めていたそうです。
ですが、手術をしても復帰例のない症状だったため、手術をしないでリハビリで何とか復帰できるまで状態に戻せることが出来たそうです。
そのことが原因でプロ契約に進む山本氏。
それは、松下電器産業の社員として午前中は仕事をして、午後に練習して、練習後にまた仕事に戻っての繰り返しで、山本氏が所属していた部署は忙しく、痛めた箇所のトレーニングやケアする時間が割けない状態だったそうです。
当時は、少しでもケアを怠ると肩が上がらなくなってしまうような状況だったそうで、”負傷でバレーが出来なくても、社員として生きて行ける”という環境でしたが、バレーを続けるなら午前中は肩のケアに集中できる環境作りにするにはプロ契約しかないと思い、決心したとのこと。
プロ契約になるとシビアな世界でプレーすることになるようで、契約は”単年契約”で、怪我の状態によっては契約を即、切られることもある内容なんだとか。
山本氏がプロのバレーボール選手になった事で改善しなければいけないことがありました。
それは、体重を増やすこと。
個人で栄養士と契約をして、食事の面から改善していった結果、約20㎏増やすことが出来たそうです。
その当時の代表クラスの選手は、栄養の知識があっても食べたい物を食べ、その後のことは考えていなかった選手が多かったんだとか。
山本隆弘の代表復帰
山本氏は、バレーか選手から身を退こうと考えたことがあるそうです。
2004年のアテネ五輪の出場ができなかったことが理由みたい。
当時は、2003年のワールドカップでMVPを受賞した山本氏で、12年ぶりにアテネ五輪に出場できると期待が高まっていたようです。
結果、出場出来ずで、”勝っても山本、負けても山本”で、特に負けた時は”山本の責任”だったそうでバッシングが凄かったんだとか。
ご自身も責任を感じていたことで「もう日の丸を背負っちゃいけない」と自分を追い込んだようです。
そして、代表を去ることに。
その当時、山本氏が大変お世話になった高校の恩師がガンが原因で他界したのですが、最後の言葉は「あいつ(山本氏)はまだチャレンジできる年齢だ。またチャレンジして欲しい。オリンピックに行ってる姿を応援したかった。」と言って目を閉じたそうです。
その恩師の最後の言葉を奥さんから聞いた山本氏は、再びオリンピックにチャレンジすることに決め、その2年後の2006年に代表に復帰したのでした。
山本隆弘の引退
負傷した肩をカバーしながら、2008年の北京五輪に出場を果たしました。
そして、2011年のロンドン五輪日本代表にもチームのまとめ役として日本代表に選出しましたが、願いは叶わずで、2013年に現役を引退。
2013年1月27日、大阪府枚方市で引退記者会見を開き「ロンドン五輪予選を戦ったが結果を出せず、引退を決意した」と報告した山本氏。
数々の期待やプレッシャーを背負う苦闘の12年間に幕を下ろした瞬間でした。
山本隆弘の引退後
引退後の山本氏は、、バレーボールの解説や普及活動などメディア出演等でご活躍中です。
そして、2014年に小学生バレーボール大会「T-FIVE CUP」を企画し開催し各地を飛び回っているようです。
また、バレーの他には、趣味のゴルフ・競馬やロードバイクなおのイベントや番組などでも参加したり出演したりしてご活躍されているようです。
2023年のネーションズリーグでもご解説されていましたよね♪
山本隆弘の家族
山本隆弘の実家族家族は鳥取住まい
山本隆弘の実家の家族構成
山本氏のご実家は、父親・母親・長男・次男・三男3の構成で5人家族だったみたい。
山本隆弘の実家の家族
山本氏の父親が野球経験者で、母親がバレー経験者。
そんな両親も元で育った三人の兄弟たちは、自然とスポーツが好きになったようです。
ご実家は、田んぼで※を作ったり、畑で野菜を作ったりしていたんだとか。
因みに、弟さんは、山本氏よりもイケメンでバレー経験者♡
山本隆弘の現在の家族は埼玉住まい
山本隆弘の現在の家族構成
ご本人・妻・長女・次女の構成の4人家族。
山本隆弘の相手は熊倉由美で2005年に結婚
熊倉由美さんは、イトーヨーカドープリオールに所属し、リベロとして活躍していた元バレーボーラー。
日本代表として、バレーボール女子ユース世界選手権でチームを優勝に導き、ご自身も日本人初のMVPを獲得するなどの実績を持っていたのですが、2001年に引退したようです。
明るい性格で、由美さんは、同学年のタレント・平野ノラさんと一緒に小学時代は「東金町ビーバーズ」、中学時代はバレーボール部に所属していて仲良しなんだとか。
山本隆弘の子供
長女は山本氏似で、次女は母親似と言われているお子様たち。
次女は2023年時点で10歳になったようです。
山本隆弘の”やっちゃったね”報道
◆ディズニーで…山本隆弘がお揃い帽子の密着婚外デート NEWSポストセブンhttps://t.co/9LGzV3zpgx
雑誌のニュースを動画で!「NEWSポストセブン」
リツイート・コメント大歓迎!#山本隆弘 #逢瀬 #東京ディズニーランド #婚外デート #NEWSポストセブン— NEWSポストセブン【動画公式】 (@nps_movie) March 14, 2023
2023年3月に山本氏の”やっちゃったね”が報道されました。
2月下旬に、山本智子似の女性とディズニーランドでお泊まり報道。
山本氏のお相手は、地元に住んでいてスナック経営をしているママであり、プライベートはシングルマザー。
昔から面識あったお二人でしたが、2022年の年末からとても仲良くなったようで、鳥取⇔東京を行き来して合っていたようです。
すっと周囲を警戒して知人を交えるようにしていたんだって。
スクープされたディズニーでも知人の男女で入場したそうですが、お二人のイチャコラ姿の他にホテルin&outの様子もしっかりサクープされたようです。
記者にその女性との関係を直撃された山本氏は、中学時代からの知人で、たまたま上京したから会っただけとので、ホテルには一緒な部屋で泊まっていないことも話していたようですが、、、、、あのイチャコラ画像やYouTubeを拝見すると「残念だけどやっちゃったね」って感じ。
この後、JVAの役職と三郷市の教育委員会を辞任されたそうです。
「ディズニー で… 山本隆弘 が お揃い帽子 の 密着 婚外デート 」というタイトルでNEWSポストセブン【動画公式】で観ることができますよ。
山本氏のバレーボール人生は、現役時代にバレーボールを一度や辞め、そのことで「ガラスのエース」とも呼ばれたりして、けして順風満帆ではなかったよう。
そんな山本氏の座右の銘が「志ある所に道ありき」で、高い志を持って我が道を歩んできたのは確か。
これからのご活躍を楽しみにしながら、今回はこれでおしまいにします。
最後までお付き合いを頂き、ありがとうございました。
この記事の参考元:ノビテクビジネスタレント・システムブレーン・B-plus(ビープラス)・SPORTS BACKS OFFICIAL SITE・日本の学校・ごはんだもん!げんきだもん!・ATHLETE LIVE・TOKYO FM 80.0MHz2020/03/14 放送・TOKYO FM 80.0MHz2020/03/07 放送・ラジオFM93+AM1242 ニッポン放送2019.7.9・演依頼・講師派遣の講師セレクト・スポニチ Sponichi Annex スポーツ2013年1月28日・NEWSポストセブン2023.03.10・NEWSポストセブン2023.04.27 ・ほか
>>ココナラで不倫の悩み・・・解決できるかもよ。
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