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宮浦健人の父母は元実業団の選手で兄も経験者!全員高身長の実家の家族やバレーの歩みをまとめて紹介!

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宮浦健人のバレーの歩み

出典:宮浦健人Instagram

宮浦健人のバレーよりサッカーに興味があった小学時代

8歳で始めたバレーボール。

それは、宮浦家全員がバレーボールをしていたので自然な流れで試したら「なんとなく楽しかった」ので、そのままバレーをすることにしたそうです。

その当時は、スパイクを打っても『風船アタックだ』と家族から言われるほど下手くそだったとか。

宮浦選手より後に所属した後輩が、ユニフォームを与えられても、宮浦選手は与えられなかったほど当時は下手くそだったそうな。

小4になってから試合に出場したそうでしたが、後衛のポジションがずっと続き、スパイクを打つことはなかったとか。

当時の監督は「お前はエースではない」と宮浦選手に言っていたからでした。

この頃の宮浦選手は、「バレーよりもサッカーの方が面白そう」と思うことが多かったそうで、小4からはバレーの他に、関心があったサッカーチームにも所属していたそうです。

小6になると、父親の恩師の鎮西高校の畑野久雄監督から「付属の中学校にバレー部を作るから来ないか」とお声掛けがあり、実際に鎮西高校の練習を見に行った宮浦選手はレベルの高さに感激をしたことで、鎮西中学校に行くことを決心。

幼少期は、学校から帰宅すると習い事のサッカーをして、サッカーがない日には遊びに行って体を動かしていたそうで、体を動かす事が好きだったとか。

小学校を卒業する頃の身長は155㎝くらいで、この頃のすごく苦手な食べ物は「バナナ」と「トマト」。

栄養を考えるようになってからは「トマト」は食するようになったそうですが、それは大学生になってからなんだって。

宮浦健人の身長が急に30㎝も伸び道が開けた中学時代

父親の恩師の鎮西高校の畑野久雄監督からのお声がけで鎮西中学校に進学した宮浦選手。

中学に進学してから、急に身長が伸び出して成長痛でひざが痛かったそうな。

155㎝の身長が30㎝も伸びて185㎝に!そりゃ~痛くなるわって感じの成長っぷりっ♪

入部したバレー部の部員は2人だった為、鎮西中学校として試合に出場することは出来なかったのですが、練習は怠ることはしなかった宮浦選手でした。

この中学時代の宮浦選手は、朝の6時台には母親が作ってくれたお弁当を持って家を出ていたそうな。

家を出てからは、電車で片道1時間半ほど揺られ、夜は10時過ぎに帰宅するというようなハードな学生生活を送っていたとか。

中学は給食ではなかった為、お弁当を持参していたそうです。

母親は栄養面をしっかり考え、ボリュームがあるお弁当を毎日作って持たせてくれたんだとか。

宮浦選手にとっての”お袋の味”は肉じゃがや生姜焼きなんだって

宮浦健人の最も辛った高校時代の3年間

出典:宮浦健人Twitter

高校に進学した宮浦選手が思ったのは「バレーって面白い!」だったそうで、その後はめきめきと成長し、全国に「点取り屋」として名を轟かせるようになったのでした。

宮浦選手ご自身も「高校の3年間で、すごく成長できたと感じています」とインタビューで答えるくらい成長したようです。

ですが、宮浦選手にとって「最も」辛かった時代だったとか。

宮浦健人が腰椎分離症になり、チームからの離脱を余儀なくされた高校1年

高1出スタメンで試合に出場した宮浦選手でしたが、腰部の繰り返しのスポーツ動作によるストレスで起こる関節突起間部の疲労骨折の「腰椎分離症」で部活を休まなければ行けなかったようです。

サウスポーエースとして1年生の時から注目を集めた宮浦選手でしたが、バレーを出来なかった期間は辛かったと思います。

1年生では、1回戦で東京の早稲田実業高に敗れた春高出場だったようです。

宮浦健人のメンタルがボロボロになった高校2年

2年になるとエースとしてご活躍するようになった宮浦選手でしたが、伸び悩む期間が続いたことで「もう辞めたい」と言って泣いてしまうほど追い込まれていたそうです。

チームに迷惑をかけることが多かった事でメンタルがボロボロになった宮浦選手でしたが、練習は地道に続けていたそうです。

努力努力の日々を過ごし、その努力を続けた結果、春高では準優勝を勝ち取った宮浦選手で、ご自身の中で最もいい成績を収められたとのこと。

宮浦健人が熊本地震に遭い練習不足になった高校3年

高校3年になると主将を任された矢先に大きな地震が発生!

学校の体育館や校舎は損壊し、学ぶ場所や練習する場所がなくなるくらい、そして住む所がなくなるという被害が深刻になった熊本地震だったのでした。

地震が発生してから1ヶ月過ぎた頃に、ようやく全員が集まって練習を開始し。

学校の運動場で作った『砂場のコート』で練習したり、福岡県や佐賀県まで行って体育館を借りたりと出来ることは全てしていたそうですが、練習が思う様に出来なかったようです。

1回戦は戦わず2回戦で敗退した最後の春高。

鎮西の主将兼エースを務めた宮浦選手は、大きなプレッシャーに襲われり、スパイクがなかなか決まらないことで、他の学校みたいにもっと練習できたらよかったのに」と思ったそうですが、インタビューには「弱いから負けた。自分がふがいなかったせいで、負けました」と一切の言い訳をしなかった男前な選手でした。

宮浦健人のスポーツ推薦の早稲田大学時代

出典:宮浦健人Instagram

大学に進学すると、「早稲田のエース」とか「大学ナンバーワンオポジット」と言われ1年生からスタメンでご活躍。

パワフルなスパイクやジャンプサーブで大活躍し、4年間全日本大学選手権4連覇を達成したのでした。

大学1年のときには、ユース代表にも選ばれレギュラーとしてご活躍し、2017年世界ユース選手権では主将としてチームを銅メダルに導いた宮浦選手♪

大学では栄養士の方がいたことで食事の管理も出来ていたたことで、この時代から食事について強く意識するようになった宮浦選手で、栄養の大切さを痛感したとか。

宮浦健人が早稲田を選んだ理由

小学時代からの知り合いだった高校時代でも先輩である田中健翔先輩が早稲田のバレー部に所属していて、その先輩からお声がけがあった事で「早稲田かぁ」と思っていたら、たまたま松井監督にもお声を掛けて頂いたんだとか。

その他には、宮浦選手曰く、「僕の高校は頭が悪かったのでネームバリュー的にもいいかなと」とのことで選んだようです。

早稲田に進学すると、先輩たちが色々と面倒をみてくれ、充実していたそうですよ。

宮浦健人の気づきが多かった大学1年

高校時代とは違う環境でのバレーで、宮浦選手は新鮮に映ったようです。

高校までの宮浦選手は、「どんなボールも上がってきたらとにかく打って決める」と自分に言っていたそうですが、大学では細かな戦術までこだわるプレーで新しい気づきが多々あったとか。

宮浦健人の自分の武器を知った大学2年

2年の冬に参加したアジアU23選手権の合宿で「もっと成長したい」という欲が出てきた宮浦選手。

アンダーカテゴリーでともにプレーしてきた新井雄大選手・都築仁選手・西田有志選手がシニアの代表に選出され始めたことで、ご自身もシニアで戦いたいという思いが強くなったんだとか。

当時チームの監督を務めていたゴーダン・メイフォース監督との個人面談で、当時の宮浦選手に足りなかったのは、手持ちの武器の少なさだったことが分ったそうです。

そのことで今後世界で通用するために何を武器とすべきかを考えた結果「サーブ」という答えに辿り着き、ジャンプサーブにチェンジしたとのこと。

成長の一つに体を大きくすることも考え、ウエイトトレーニングのトレーナーの指導の下、全く取り組んでこなかったウエイトトレーニングを始めた宮浦選手でした。

けがの予防の面を考えてくれるスタッフと、栄養面を考えてくれるスタッフともコミュニケーションをとり、毎日地道に体作りをしたそうです。

宮浦健人のビックサーバーへと成長した大学3年

サーブを得点源としているわけではなかった過去の宮浦選手でしたが、この3年のときからジャンプサーブに変え、以前よりも増してサービスエースを連発するようになったことでサーブの評価も上がり、ビッグサーバーへと成長したのでした。

宮浦健人の「自分は上がってきたボールを決めるのが仕事」だと思っていた大学4年

4年になると主将を務めた宮浦選手でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大により、大会は相次いで中止になるという残念なことに。

試合は出来なくてもより一層成長するためにウエイトトレーニングをせっせと励んでいた宮浦選手で、その成果が出てより一層体も大きくなったそうです。

体が大きくなるとパワーがついて、3年までは思いっきり打っていたサーブが、8割程度の力でコントロールしながら打てるようになったんだとか。

10月には秋季関東大学リーグ戦の代替大会が開催されましたが、その1週間後に早大が所属する1部リーグのチームでコロナが発生し、中断を余儀なくされたようです。

4年生の間で全日本インカレができなくなってしまうのではないかという不安が広がっていたそうですが、宮浦選手は「全日本インカレを最高にするために、今は頑張らないといけない」と考え、今以上にトレーニングに励む自分の姿を見せる事で仲間を励ましたのでした。

そして、最後の大会は開催され、全日本インカレ4連覇という経験をした宮浦選手でしたが、主将だった宮浦選手は全身全霊をかけて試合に臨んだことで、試合後は自力で立つことが出来なく、治療用の簡易ベッドで横になったまま大学最後のミーティングに参加していたのでした。

因みに、宮浦選手が主将になったのは、学年全員で話し合いに話し合いを重ねた結果、決定したそうです。

宮浦選手ご自身では「俺はそんなに向いてる方ではない」と思っていたんだとか。

宮浦健人のキャンパスライフは寮生活

プレー中の宮浦選手は、安定の存在って感じですが、私生活はのほほんとしてすごいギャップがあるんだとか。

私生活は”物静かな陰キャラ”と言われていたそうですが、意外とアウトドアでバスケとかスノボなどをして楽しんでいたようです。

コロナ渦では、近所の公園で野球をして体がなまらないようにしていたっようですよ。

村山豪選手からは、「(宮浦は)本当にバカなんですよ」と言われる始末で、会話が成り立たなかったり、質問しても質問と関係ない答えが返ってきたり、授業中でも謎な行動をしていることから、そう言われていたようで、村上選手からした宮浦選手は「不思議ちゃん」なんだとか。

同部屋だった中村俊介選手とはとても仲が良かったようで、暇つぶしにマリオカートをしたり、中村選手とNBAを観戦したりといつも一緒で、周りが「気持ち悪い」っと言うぐらいイチャコラして仲が良かったそうです。

宮浦選手にしたら、中村選手と一緒にいる時間が楽しく、すごく楽でリラックスできたそうな。

宮浦選手は映画を観るようで、気に入った映画は何回も観るとか。

ギャン泣きしたのは、映画『君の膵臓を食べたい』で、7回観た映画は『美女と野獣』で雰囲気が楽しめた映画だったそうですよ。

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こんにちは! あんびと申します。 犬が好きすぎて数頭のわんこを保護し、 ペット看護師の資格とペットセラピストの資格も取得して、 犬のために生きているような日々を過ごしているおばちゃんです。 こんな私ですが、よろしくお願いします。