目次
水谷豊の生い立ちや出身校
水谷豊の幼少期~小学時代エピソード
1952年7月14日に北海道空知郡芦別町で生れた水谷氏は、雪深い田舎でのびのびと育ったようで、ここでは夏休みになると素っ裸になって川で泳いでいたそうです。
水谷豊の入学した小学校は芦別市立野花南(のかなん)小学校で卒業した小学校は市川市立第四小学校
水谷氏の入学した小学校は、北海道の芦別市立野花南(2014年3月閉校)ですが、父親の転勤に伴い東京都立川市富士見町にある市川市立第四小学校に転校したようです。
水谷氏の小2(8歳)の時の出来事で、この転校で父親の顔を初めてまともに見たんだとか。
水谷氏の小学時代は少年野球をしていて、大会で優勝したこともあるそうですが、相撲にも興味があって力士の憧れもあったそうですよ。
水谷豊の小学時代の読書感想文
小学高学年の頃の読書感想文にチャップリンの伝記を選んだ水谷氏。
チャップリンが大好きだった水谷氏は、チャップリンの伝記を読んで、チャップリンの不幸な生い立ちや、チャップリンの作品は”大きな社会的なテーマを取り上げていたんだ”と知り、ユーモアはどんなところにもあると思ったそうです。
水谷豊が劇団ひまわり入団するきっかけ
小学時代に水谷家にやって来た白黒テレビ。
当時のほとんどの子供たちは、テレビに夢中になっていて、水谷氏も同じでしたが、水谷氏の場合は「ドラマやスポーツ」に夢中になっていたのではなくて、「現場や舞台裏」に興味を持っていたそうです。
「どうしてこんな小さな箱の中に映像が映し出されているんだろう?」と不思議に思い、「よし、いつか俺もこの箱の中に入ってやろう!」と思ったんだとか。
当時の水谷氏は、街をうろついて家にあまり帰らない不良少年でしたが、近所の加山さんが、そんな水谷氏でも可愛がってくれていたそうです。
その加山さんに水谷氏は「あの箱の中に入りたい」と自分の思いを話すと、加山さんは「あの箱に入りたい」を「テレビに出たい」と解釈したようで、加山さんは水谷氏に児童劇団のパンフレットをくれたのが、入団するきっかけになったんだとか。
水谷豊の中学時代のエピソード
水谷豊の出身中学校は立川市立立川第一中学校
体育祭の時に、水谷氏の走りを見て陸上部にスウカウトをされた水谷氏。
スカウト後は、400メートルリレーの日本新記録を持っていた先輩がいる陸上部に所属し、オリンピックを目指して競技に励んいたそうで、国立競技場で走ったこともあるんだとか。
この中学時代の水谷氏は、骨が歪んで首が痺れて針治療を受けたそうです。
水谷豊の芸能界デビューは13歳の中1の時
水谷氏は自ら応募したのは、中1の13歳の時で、芸能界デビューも13歳。
入団先は児童劇団『劇団ひまわり』で、初めての仕事はエキストラだったとか。
その時に「何か違う」・「確かな入った感がない」と思ったそうです。
次に、劇団「雲」の舞台のオーディションに受かった水谷氏でしたが、水谷氏が思い描いていた「箱」ではなかったような・・・。
この時代の水谷氏は、周囲の大人が嫌いになり人間不信になっていたそうです。
水谷豊の高校時代のエピソード
水谷豊の出身高校は大成高等学校
大成高等学校(偏差値は48 – 582022年9月時点)へ入学した水谷氏はバスケットボール部に所属していたそうで、成績も優秀だったとか。
楽しそうな青春時代を送っていたと思いきや、水谷氏の16歳からの高校時代は「別格の人」・「水谷豊は芸能人」という扱いで誰も近寄ってこなく、孤独な時間を過ごしていたそうで、親友はもちろん彼女もいなかったようです。
水谷豊の順調な俳優人生
高校生活は孤独でも、芸能界での水谷氏は順調な俳優人生を送っていたようです。
水谷氏の16歳の時に、800人の中から選ばれて、テレビドラマ「バンパイヤ」で主役に抜擢され、テレビデビューを果たしたのでした。
この「バンパイヤ」で、水谷氏が思い描いていた「箱」に入れたのですが、水谷氏は「こんな大人になりたくないなあっていう人がけっこういた」こともあり、「ここは自分のいる世界じゃない」と感じていたんだとか。
そして、翌年の17歳の時には、映画『その人は女教師』でスクリ ーンデビューし、順調な俳優人生を送っていたのですが、突然の引退・・・。
水谷豊の芸能界引退
水谷氏が思い描いていた「箱」の「テレビの仕組みや裏側」などの全てを経験した水谷氏は引退することを決め、1970年に『劇団ひまわり』を退団。
そして、米国の大学に進学することを決め、猛勉強をしていたのでした。
水谷豊の人生初めての挫折
米国行きを学校や実家家族に相談し、承諾を得ていた水谷氏で、米国の大学に行く為の勉強をしていましたが、受験を前に父親の会社が倒産。
親からの援助が無理になったことで米国の大学を諦め、日本の大学を急きょ受験することにしたそうです。
学部「政経学部」がある大学でした。
しかし、残念ながら不合格になり浪人に・・・人生初めての挫折を味わったのでした。
心の傷はとても大きかったのでしょう、その後、放浪の旅に出た水谷氏。
水谷豊の高校卒業後
水谷豊の家出
18歳で挫折を味い、前の道が閉ざされ家にいるのが嫌になった水谷氏は、高校卒業直後の5月に所持金400円を持って家出をしたそうです。
実家の立川市から八王子市にある高尾山で野宿をしたそうですが、寒さで寝付けなかったそうな。
夜が明けて歩いていると、車に乗った男性に釣りに誘われ、釣りをした後にその男性の家に招かれ、食事までお世話になり泊めてもらったんだとか。
水谷氏が帰ろうとするとその男性が「金、ないんだろ?」と言って、2000円を渡してくれたそうです。
2000円を持った水谷氏は自宅には帰らず、立川市内の諏訪神社の近くにある公園で野宿を始め、しばらくすると山中湖に向かい、山中湖畔のドライブインのお土産屋で住み込みのアルバイトとして2ヶ月過ごし、何となく家に電話をしたら、母親に「もう帰ってきたら」と諭され、自宅に戻った水谷氏。
通りすがりの男性が親切にしたくれたお陰で、人間不信(大人不信)が治ったそうです。
水谷豊の帰宅後のアルバイト
帰宅した水谷氏は相変わらずの浪人生でしたが、実家の経済的にはアルバイトをしなければいけないようでした。
アルバイトを探していたら、子役時代に知り合ったのプロデューサーから「ちょうど19才の役を探している」と声をかけられ、普通にバイトするよりは高収入なこともあり、引き受けることに。
バイト感覚で俳優をしていると次々に仕事が舞い込み、「22歳で浪人生であるハズの自分が勉強が出来ない」・「これではダメだ」と思い、最後の”バイト”で引き受けたのが1974年10月から放送されたテレビドラマ『傷だらけの天使』。
そのドラマでは、萩原健一氏が演じる主人公・小暮修の相棒・乾亨を演じたのですが、一躍注目を浴びたため次々と”アルバイト”の依頼が来るようになったのでした。
そして1978年から放送されたテレビドラマ『熱中時代』で、熱血小学校教師・北野広大を演じ、主演俳優として不動の地位を手に入れた水谷氏。
1979年には、テレビドラマ『熱中時代・刑事編』の主役と主題歌を歌い、その主題歌『カリフォルニア・コネクション』は65万枚を超え超ヒット!
その後も、水谷氏の”アルバイト”は続くことに・・・。
水谷氏は仕事をした期間と同じ期間休みたくなるそうで、20代の時は1年間働かなかったこともあるそうです。
水谷豊の学歴
水谷豊の学歴や受験のまとめ
芦別市立野花南小学校を卒業
↓
立川市立立川第一中学校を卒業
↓
大成高等学校を卒業
↓
学部「政経学部」がある大学を不合格
※法政大学や東京商船大学を受験したこと、水谷氏ご本人がインタビューで否定しています。
水谷豊の最終学歴
現時点では、大学を進学していないようですので、水谷氏の最終学歴は高卒。
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