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西田有志の5歳から始めたバレーの歩みは?生い立ちや片道25㎞通学などのエピソードも紹介!

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ハイパワースパイカーの西田有志選手の最終学歴は高卒ですが、高校を卒業してから実業団入りしてすぐレギュラーになり、日本代表にも選抜されたまぁ~凄いバレーボーラーだということはご存じの方が多いのではないでしょうか。

その当時の日本最高峰のヤングバレーボーラーだったのかもしれません。

そんな大物バレーボーラーの”青少年まで”については知らない方が多いかと・・・。

ここでは「西田有志の5歳から始めたバレーの歩みは?生い立ちや片道25㎞通学などのエピソードも紹介!」と題しまして、西田選手の”青少年まで”紹介いたします。

この記事でお伝えしていることは執筆時のものであり、現在では異なる場合がありますのであらかじめご了承の上、お読みくださいませ(♡ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
また、情報に誤りがあった場合など、ご指摘いただけると幸いです。
旧タイトルは「西田有志の出身校(中学と高校)はどこ?学生時代のエピソードも調査」の記事を、2023年3月にリニューアルしています。

西田有志のプロフィール

生年月日:2000年1月30日

年齢:23歳(2023年3月時点)

出身地:三重県いなべ市大安町石榑東

身長:186cm

体重:87kg

血液型:O

利き手:左

趣味:貯金・車・映画鑑賞・買い物

※2003年12月1日、西田選手の3歳の時に大安町が北勢町、員弁町、藤原町と合併していなべ市となったようです。

西田有志の出身保育園は石榑保育園(いしぐれほいくえん)

出典:桑名市社会福祉協議会@kshakyo

2000年1月30日に三重県四日市市芝田 2 丁目にある市立四日市病院で4220グラムで生れた西田選手。

元気いっぱいに育った西田選手は、保育園の年長組の5歳の時に当時は伊藤カズ子さんで、後に梅澤道夫氏が監督を務めていた大安バレーボールスポーツ少年団「大安ビートル」というバレーボールチームに入団しました。

2006年1月のことで姉や兄の影響もあり、バレーボールに興味を示しましが、ご自身は「やりたかったというよりは、バレーボールをすることが普通という感じでやり始めた」とインタビューで答えているようです。

小学生からしか入団できないチームでしたが、西田選手の場合は特別に入れたんだとか。

入団当初からサーブが入り周囲を驚かせていたそうです。

ご両親曰く、「野生児だった」と。

大安ビービートルは週 3 回練習(水・土・日曜)をしていたそうです。

因みに、当時の西田選手の身長はあまり大きくはなかったようですよ。

西田有志の出身小学校は石榑小学校(いしぐれしょうがっこう)

出典:桑名市社会福祉協議会@kshakyo

小学校に進学をしてもバレーボール熱は冷めなかった西田選手。

見よう見まねでいろいろなことをしてもそれが出来るので、周囲を驚かす存在でした。

小2になるとジャンプサーブを打つようになった西田選手でしたが、当時の監督は西田選手の肩を痛めたらいけないという思いから止めたそうです。

この頃から西田選手は”自分が今できる事を”常に考えていたようで、それからはスパイクのフォーム作りにタオルを使用して、タオルをブンブン回してフォームの研究をしたり、自分より身長の大きな選手に負けないジャンプ力を培うために、大安ビートルでの練習の休憩中に、隣にかかる弁天橋の地面から高さ2・6メートルをめがけ何度も飛び続け励んでいたとか。

小4になると本格的にジャンプサーブの指導を受けるようになった西田選手。

そして、小4の時にスタメンで全国大会出場を果たすことに!

その頃の身長は140㎝くらいだったにもかかわらず、小6に負けないくらいの強いスパイクを打っていたセンス溢れるちびっこバレーボーラーだったようです。

小学5からは、一つのポジションだけではなく、いろいろなポジションやプレーを全部こなしていたとか。

小6での身長は158㎝か160㎝くらいあったそうですよ。

西田選手が卒業文集に書いた夢は「社会人」で、今でも忘れられない言葉は「くさるな、あきらめるな、逃げるな」で大安ビービートルの伊藤カズ子監督が色紙に書いて贈ってくれたんだとか。

西田有志の出身中学校は大安中学校(だいあんちゅうがっこう)

出典:桑名市社会福祉協議会@kshakyo

2012年4月にいなべ市立大安中学校に入学した西田選手。

バレーボールに青春を捧げていた西田選手は、バレーボールが強い中学に進学をせず、地元の中学にこだわりなく進学をしたのでした。

西田有志の中学一のエピソード

バレーボール部に迷いなく入部した西田選手でしたが、バレーを経験したことがない者の集まりだったようです。

それプラス監督もバレー経験がなかった為、西田選手が導者の役割も果たしていたとか。

西田選手が指導するに当って自分ができないと説得力がないと考え、指導する前にご自身がさまざまなことを習得して、それを周りに教えるということをしていたようです。

そして、中1からレギュラーで試合に出場していた西田選手は、夏前に四日市市にある海星高校バレー部の練習に参加するチャンスあり、そこで参加していると当時バレー部監督の大西正展氏と部長の藤田勝成氏の目に留まったそうです。

そして、その年の6月から藤田氏の勧めで中学生クラブチーム※「NFO オーシャンスター」に入団した西田選手でした。

西田選手の中1時代は大忙しのバレーてんこ盛りの日々を送ることになったようです。

学校の部活動海星高校で行なわれる部活の練習+中学生クラブチーム「NFO オーシャンスター」での活動と3つ掛け持ち状態でした。

週2回は、中学での部活が終り帰宅後は急いで夕食を食べ、食べ終えたら母親が「NFO オーシャンスター」の練習場所になる海星高校の体育館まで車で送り、その練習が終わるのは夜中になることもあったようです。

そんな多忙な日々を送っていた西田選手は、2013年3月に三重県の北勢地区の選抜チーム(U-14)に選ばれたのでした。

※「NFO オーシャンスター」の「NFO」 とは、当時三重県バレーボール協会の役員を務めていた中尾聡氏と藤田勝成氏・大西正展氏のクラブの創設者であり、指導者を務めた3人の頭文字を取ったものだそうです。

因みに、西田選手は「NFO オーシャンスター」の一期生になるんだとか。

西田有志の中学二のエピソード

2013年3月に三重県の北勢地区の選抜チーム(U-14)に選ばれた西田選手は、中2の12月に開催されたJOCジュニアオリンピックカップ(JOC杯)で全国の選抜チームと対戦したそうです。

対戦前の4ヶ月間はみっちりと指導を受けた西田選手で、この期間で西田選手のご両親が感じる程大きく成長したそうです。

この経験で「レベルが高くて、すごく勉強になった」とインタビューに答えていた西田選手でしたが、同時にご自身のジャンプがほかの選手よりもジャンプが高いことに気づいたんだとか。

学校の部活は、西田選手と彼の両親の熱意によって周囲の意識も変わっていき、チームが段々と強くなりコンスタントに上位に食い込めるようになったそうです。

そして、中学2年の冬の新人大会で県の3位に入るという素晴らしい結果が!

西田選手のこの頃の夢は、「石川祐希選手と一緒にプレーをしたい!」だったようです。

また、この頃の西田選手は山に登ると、橋の上から滝壺のような所に飛び込んでは上がってくる遊びを半日ぐらいしていたそうです。

西田家ではこの遊びを「野生児遊び」と言っているようですよ♪

西田有志の中学三のエピソード

中3になる頃には、バレー部員や部員の保護者も意識が変っていて、最後の大会前になると自主練をしたり、練習が終わった後には、保護者からアイスクリームの差し入れがあったりしていたそうです。

西田選手の母親は、その様子を見て「強くなれば保護者の意識も変るんだ」と思ったんだとか。

当時の西田選手は、3年生になっても三重県選抜としてJOC杯に出場し、日本中学選抜にも選ばれて合宿にも参加していたそうですが、腰を痛めていてほとんど練習できずにいたこのエピソードは西田選手にとって結構悔しい思いでの一つになるようです。

卒業が近づくにつれ、近隣の強豪校からの勧誘が多くなった西田選手。

愛知県の星城高校や地元の松阪工業高校など8校からラブコールを受けていたそうです。

この当時の西田選手の憧れの選手は石川祐希選手。

石川祐希選手は、出身の星城高校を史上初の高校6冠に導いたすっごいバレーボーラー。

西田選手の部屋には石川選手のポスターを貼ってあって、髪型もシューズもマネしたいたんだとか。

高校に進学すると、石川選手と一緒なネックレスを何個も購入と言う徹底ぶり!

西田選手の母親は、石川選手の出身校の星城高校に進学し、今以上に恵まれた環境で全国を目指してほしいと願っていたそうですが、当の西田選手が選んだ高校は、海星高校でした。

西田選手は、ご自身がその高校に進学をしても石川選手は高校を卒業しているため一緒にはプレーできない事を考えると「自分の力で強くして、強豪チームを倒したい」と思う様になり、そこで選択肢に上がったのが海星高校だったみたい。

当時の海星高校は、春高バレーなど全国大会に出場した経験がなかったそうな。

そんな高校のバレー部にご自身が行くべきだと・・・そしてご両親に相談をした西田選手でした。

三重県バレーボール協会の役員である中尾氏が西田選手の中学に訪れ、名門・松阪工業高校を勧めるが、小学生の頃から持っていた「自分の力で勝つ」という思いを貫いた西田選手だったようです。

「なぜか強豪校に行こうと思わなかった」と後に当時を振り返りインタビューに答えていた西田選手でした。

中3の14歳の時書いた作文のタイトルは「オリンピックへの道」で、内容は「私の夢は、2020年東京で開かれるオリンピックに出ることです。」でした。

東京オリンピックを夢見て励んでいる息子を、ご両親は未来の西田選手の身体を思いスポーツ選手にありがちなケガの痛みをつり除くことに最善をつくし、複数の名医を訪ね納得するまで診察や治療をしてもらっていたとか。

ぱんちゃん

中学時代の学校のクラブ活動で、自分が同級生に教えることが自分を客観的に見ることができ、その経験がバレーの幅を広げた要因になったと西田選手はご自身の事を分析しているようです。

西田有志の出身高校は海星高等学校(かいせいこうとうがっこう)

出典:makkipen_yuji0130Instagram

西田有志の高校通学エピソード

2015年4月に四日市市追分にある海星高等学校に進学した西田選手ですが、1,2年の時は電車通学をしていて、3年になると片道 25km の自転車通学にたそうです。

電車通学の時は、いなべ市大安町丹生川中にある三岐鉄道三岐線丹生川駅から岐鉄道に乗り、近鉄富田駅で近鉄線に乗り換え、塩浜駅に向かっていたようです。

そして、四日市市御薗町にある近畿日本鉄道名古屋線塩浜駅に着くと、学校まで約片道3㎞を自転車に乗り換え通学をしていたようです。

自転車通学なるきっかけは、大西正展監督より自転車をプレゼントされ「自転車で立ちこぎしたら、どこの筋肉に来るんだ?」と疑問が湧いたことだそうです。

その疑問が発端となって電車に乗らず自転車で走破し、その後は自転車通学へ変更したとか。

西田有志の高校時代の思い出

男子校ならではの体育祭が思い出の一つだそう。

体育祭であんなに一生懸命になるのは男子校だからだと思うくらい一生懸命だったらしく、ケガや気分が悪くなる生徒で保健室が一杯になり、ケガをしても治療は15分待ちだったんだとか。

西田選手曰く、「そんな学校ないでしょ」笑。

高2の時の西田選手は、走高跳で3年生に交じって優勝争いを演じていた時に、(先輩に優勝を譲ったりしないで)最後までやらせてくだいと言ったことで、上級生も刺激を受け”デッドヒートな走高跳”になり大いに盛り上がったこともあったそうです。

西田有志の高校時代の友人

西田選手の高校時代の友人の一人が清水大輝さんで、清水さんが西田選手について「ユージは常にバレーのことを考えて生きているような人間」だったとインタビューで答えていました。

西田選手は、いきなり清水さんの家に「ただいま」と言って入ってくる”気まぐれな友”だったようです。

バレーで超多忙な日々を送っていた西田選手にとって清水家はホット一息つける場所だったのかもしれませんね。

西田有志が通った場所

西田選手が古くから通っているスポーツ店は、桑名市中央町にある「服部スポーツ桑名店」で、高3の時に通った自動車教習所は、桑名市長島町西外面にある「長島総合自動車学校」だそうですよ。

因みに、「服部スポーツ桑名店」は宮下遥選手も御用達の店なんだとか。

このスポーツ店にはお二人のサイン入り色紙がしっかりと飾ってあるそうです。

西田有志の高校時代のバレーボールエピソード

海星高校のバレー部に所属した西田選手が当時困惑したのはネットの高さでした。

ネットの高さが2m40cmでセットされていて、中学時代のネットの高さより10㎝高かったようです。

入部した当時の西田選手は、ネットの高さに慣れず中々アタックが決まらず苦労したそうですが、打ち続けているとジャンプ力が上がっていき、悠々とネットの上から打てるようになったそうです。

高1年の4月に行われた三重県高等学校春季バレーボール大会の準優勝に貢献した西田選手でしたが、監督の大西正展氏は当時の西田選手の将来を「セッターかリベロ」と考えていたようです。

それは、高校入学時の西田選手の身長は180cmだったため、バレーボラーとしては高くない身長だったからでした。

ですが、西田選手を見ているうちに「サーブレシーブ」の上手さを知ることとなり、”攻撃専門”のポジションの「オポジット」に将来的なポジションの変更を考えるようになったのでした。

高2の春高バレー県大会準決勝で、エースとして挑んでいた西田選手は、試合終盤に体の限界がきたのか、下半身がつり肉離れを起こしプレーが出来なくなってしまいました。

その後のチームはエース不在で試合を続けましたが、惜しくも負けてしまったのです。

その試合を見ていた母親は、西田選手が治療をしているところに行って、「負けたのはお前のせいやぞ」と言って叱咤したとか。

母親は「足がつるのは練習していない証拠」」と思うと頭にきたんだとか。

この経験で西田選手は、ご自身の体の事を考えるようになったそうな。

この経験後は、部活動の練習がない日は公共の体育館に行ってウェイトトレーニングをし、食事は「アスリート食」に変え、好物の肉ばかりを食べるのではなく、5大栄養素を摂取するようになったそうです。

世界ユースの代表メンバーからもれたことで、1週間ほど落ち込みましたが、立ち直ってからは常に全力で練習に励むようになった西田選手。

時間が少しでもあれば筋トレに励み、日課は上半身裸になって姿見で筋肉を確認することで、常に体脂肪4~5%をキープしていたとか。

春高予選敗退後にチームの主将も任された西田選手でしたが、西田選手は高校バレーの最高峰になる春高の舞台に一度も立てずに高校を卒業したのでした。

高校時代の詳しくは、当サイトの西田選手のプロフィールで詳しく時系列でお伝えしていますので、そちらをご覧くださいませ。

 

日本の男子バレー選手は、大学を経てからVリーグに進む選手がほとんどのなか西田選手は強豪校の誘いを断りVリーグに進みました。

大学に行ってからVリーグというのは、自分の中では遠回りと思ったそうです。

西田選手の母親は「自分がやりたいことをやる。止めると嫌がる。まるで厨二病」と・・・ステキです♪

最後に、西田選手が通っていた高校ですが、私立の中高一貫男子高校で、学校法人エスコラピオス学園が経営するカトリック系の学校で、少人数制の授業を行い、最初は通常クラスと選抜クラスに分かれて、多数の有名難関大学への進学実績がある進学校だそうですよ。

・国公立実績:京都大学・富山大学など
・私立実績:慶応義塾大学・青山学院大学など

この海星高等学校出身の有名人は

・岡本篤志 :プロ野球選手
・広田庄司 :元野球選手
・高木勇人 :プロ野球選手
・松本卓也:元プロ野球選手
・水谷茂雄 :元野球選手
・北野勝則 :元プロ野球選手

とゴージャスな顔ぶれ!!

西田選手はすごい能力を持っている選手だと言われて、「身体能力」「吸収力」「順応力」「闘争心」「コメント力」「思考力」「探究心」の7つ能力が素晴らしいそうです。

 

「西田有志の5歳から始めたバレーの歩みは?生い立ちや片道25㎞通学などのエピソードも紹介!」と題して、お伝えしましたがこれでおしまいです。

お付き合いを頂きまして、ありがとうございます。

この記事の参考元:当サイト旧記事・東海テレビ2021年7月24日・中京テレビ「アス友」2018年11月16日放送・桑名市社会福祉協議会・style.nikkei2018/12/14・exciteニュース2020年06月12日・海星高等学校同窓会インタビュー・NumberWeb2021/07/23 ・西田有志選手のあゆみ①・livedoor2020年6月16日・ほか

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こんにちは! あんびと申します。 犬が好きすぎて数頭のわんこを保護し、 ペット看護師の資格とペットセラピストの資格も取得して、 犬のために生きているような日々を過ごしているおばちゃんです。 こんな私ですが、よろしくお願いします。