目次
石川祐希の”近づくな”オーラの高校時代のエピソードと卒アル
石川祐希の高1のバレーエピソード
中学を卒業した石川選手は、愛知県豊明市にあるバレーボールの名門、星城高校に進学。
この高校でもバレー部に所属した石川選手ですが、入学直後からレギュラーに♪
このバレー部の竹内裕幸監督は、基本的に夏ごろまで新入生を起用しない方針ですが、石川選手の積極的にレシーブをするプレーを高く評価したそうな。
この高校のエーススパイカーとしての道を歩み始めた石川選手でした。
石川祐希の高2のバレーエピソード
高2になり、エースとして成長した石川選手で、身長もどんどん伸びて行ったそうです。
インターハイ、国体、選手権の3冠を達成し、インターハイではベスト6と優秀選手に選出し、春高では最優秀選手に選出。
そして、全日本ユース代表にも選ばれるなどの大活躍をしていたようです。
色白で顎もシュッとしていたイケメン石川選手を見ていた竹内裕幸監督は、バレーボール部をPRをお願いしようと思っていたそうな。
ですが、当時は無口で、教室にいても“用事がなければ近づくなオーラ”を出していたそうで、女子はお気楽に声をかけられなかったとか。
小学生女子からTシャツにサインしてくれるよう頼まれても「サインなんてやったことないし、できないよ」と言ってお断りした当時の石川選手。
そんな石川選手に竹内監督は、高校生とはいえ、ファンを大切にすることがバレーの普及につながるという考え方だったことから、監督命令で「漢字でフルネームを書けばいいだけなんだから、できる限りサインに応じなさい」と言ってその女子の希望を叶えさせたそうな。
その後、石川選手にサインのおねだりをする女子がどんどん増えていって、石川選手のサイン待ちで、チームのバスの発車時間が遅れることもあったんだとか。
石川選手のモテキはまだまだ続くのでした。
石川祐希の高3のバレーエピソード
高3になると、チームのキャプテンになった石川選手。
年連続の3冠を達成という偉業を成し遂げーの、インターハイでベスト6と優秀選手に選出されーの、春高では最優秀選手に選出されたのでした。
高校を卒業するときには、高2から高3の2年間で公式戦99連勝という記録保持者になっていたそうなっ!
石川選手の名前が、バレーボールファンに広く知られたのは、2014年1月の「春高バレー」で、高校史上初の6冠を成し遂げた時なのでは?
石川祐希の高校時代のバレーは「奇跡のチーム」
石川選手が所属していたこの年代の星城は「奇跡のチーム」と呼ばれていたそうです。
“日本バレー史上最高の逸材”と評価されていた石川選手はもちろん、中根聡太氏がセッターを務め、山﨑貴矢氏や武智洸史氏・神谷雄飛と川口太一氏のそうそうたるメンバーだったのです。
石川祐希の高校時代の恩師は竹内裕幸氏
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=tkqKBHsC5eg
石川選手の高校時代の恩師・竹内裕幸監督で、石川選手にとって竹内監督と過ごした時間は大きかったらしく、プレイヤーとしても、人間性も磨かれたと思っているとのこと。
非常に感謝している監督なのでした。
石川選手の美しいフォーム(スパイク時)が安定したのはこの頃だそうで、柳田将洋選手のフォームがキレイだと思っていた石川選手は、柳田選手のフォームを参考にしていたんだって。
石川祐希の高校時代の監督の方針
竹内監督の方針は「選手たちに細かく教えすぎないこと」で、課題は与えるが口出しは極力しなかったそうです。
ミーティングは選手のみで行い、お互いの意見を出し合っていたそうな。
練習メニューは監督が考え、その中で選手が必要だと思う練習をしていて、自主性を重んじるのが特徴だったそうです。
石川選手は、ボール練習へ入る前に必ずする”30分間走”で、30分間ひたすら走るだけの練習をサボらずやり続けたのでした。
この練習も「30分」という時間だけで、距離や速度は選手それぞれが自分で考えでしていたそうで、石川選手は3年間という限られた時間の中で「日本一」という目標を目指す以上、妥協ほど無駄なことはないという考えだったので、一度もサボったことはなかったそうです。
バレーボール部の練習を公開した時に、女の子たちが大勢来てしまい、体育館に入れないくらい集まりパニックになったこともあるそうです。
高校時代の石川選手は人気も実力も凄かったようですね♪
石川祐希のビクトリーアイテム
この腕時計は星城高等学校時代の監督・竹内裕幸氏から贈られた時計だそうで、この時計の他に「感謝をわすれずに」の言葉も頂いたとか。
監督の言葉を忘れずにいて、常に「感謝の気持ち」を持ち続けていると石川選手でした。
石川祐希のバレー以外の高校時代のエピソード
バレーボール以外では、自分の気配を消していたそうで、女子とは話しができないくらいシャイで、普段は優しさと柔らかさを持った石川選手ですが、バレーボールのプレー中は別人で、そのギャップが激しい男子だったみたい。
高校に進学してから食べ物に対する意識が高まった石川選手で、母親に「必ず生野菜を出して」とリクエストしていたそうな。
サラダを食べる時はのドレッシングは「青じそドレッシング」と決まっていて、飲み物は「オレンジジュース」・「野菜ジュース」と「牛乳」だったとか。
朝食は、食パンにブルーベリージャムを塗って食べていたそうです。
おやつは「あんころ餅」や「どら焼き」などのあんこ系だったそうな。
高校時代に声変わりをしたんだとか。
声変わりする前は声が高いと言われていたそうですが、声変わりをしても声が高いとご自身は思っているそうですよ。
石川祐希の体のメンテナンスは野口 嵩広氏が担当
この時代から、石川選手の体のメンテナンスをしているのは、愛知県豊橋市にあるNIKOUスポーツケアルーム 二光治療院・二光接骨院の院長の野口 嵩広氏がしているそうです。
この記事は2023年4月にリフォームしていますが、その時点でも野口氏にお任せしている石川選手でした。
NIKOUスポーツケアルーム 二光治療院・二光接骨院の住所は、愛知県豊橋市大岩町字東郷内259-3。
石川祐希の大学時代のエピソード
当時の石川選手は大学や学部を選ぶ時に、将来を見据えて決めることはなく、バレーを基準にしていろんな大学のバレー監督の話を聞いて、一番適していると思った中央大学を選んだそうな。
石川選手が進学したのは中央大学の法学部でスポーツ推薦でした。
入学当時の石川選手は「卒業したらそのまま企業へ進んでバレーボールができればいい」と思っていたため、大学で何かを学ぶということには興味が無かったとのこと。
石川選手にとってのキャンパスライフは、”バレーボールをするため”だけだったようで、その年に日本代表入りを果たし、2014年のアジア大会に出場したのでした。
石川祐希の大学1年のエピソード(2014年4月~2015年3月)
中央大学に進学した石川は日本代表入りを果たし、2014年のアジア大会に出場したり、季と秋季、全日本インカレで三冠を達成したりとバレーで活躍をしていた石川選手でしたが、
イタリア・セリエAの強豪であるモデナから短期留学でチームに加入しないかというお声がけを頂いたそうな。
その誘いを受ける前の石川選手は、海外に行くことは眼中になかったそうですが、興味と好奇心が勝って「行く」と即答したそうです。
大学バレーのシーズンが終わった12月からの3カ月という短い期間の渡伊で試合には出番がなかったものの「海外でプレーすること」に魅力を感じるようになったとか。
イタリア語に対しては、「行けば何とかなる」という思いがあったが、現地でプレーするには、周囲の選手とコミュニケーションを取るために大切な手段だった思い知らされた石川選手でした。
石川祐希のイタリア・モデナでのエピソード
チームメイトとは家族のような付き合いで、コミュニケーションに愛情を感じていて、渡伊したから1ヶ月しか過ぎていなかった時でも長く居るような感覚になったそうです。
イタリアに行ってしばらくするとに石川選手の誕生日が来たのですが、チームメイトがお寿司やでお祝いをしてくれたんだとか。
イタリアの生活は、チームメイトの車に同乗させてもらって体育館に行っていたりしていたそうで、車で片道15分かかっていたそうです。
その当時の石川選手は車の免許は持っていなかった為、移動はチームメイトと自転車が頼りだったみたい。
モデナは石川選手の移籍を機に日本とのパートナーシップを深めたい思いがあり、アウェーのユニフォームを石川選手にちなんで浮世絵の波をモチーフにしたデザインにしたり、ホームの体育館の扉も、この浮世絵の波のデザインでペインティングしたりしていたそうです。
石川選手は、短期間でチームに溶け込んだんだとか。
この頃は、ご自身の大学卒業後の進路について決め兼ねていたそうですよ。
余談ですが、こっちで髪の毛をカットしてもらったら、角刈りのようになったそうな笑
石川祐希の大学2年のエピソード(2015年4月~2016年3月)
2015年ワールドカップバレーボールカップに出場して、チーム最年少ながら大活躍した石川選手でした。
この当時、男子バレーボール界のイケメン4人が「NEXT4」と命名され活躍したことにより、人気が余りなかった男子バレーボールが大人気になったのでした。
そのNEXT4のメンバーは、石川選手・柳田将洋選手・山内晶大選手と高橋健太郎選手の4人でしたが、キャーキャー言われても心の中では悶々としていた石川選手でした。
イタリアで世界の空気を体感した後の日本の生活には、どこか物足りなく映ることすらあったため、ワールドカップ後に、大学の松永理生監督に海外行きを相談していたそうです。
ですが、当時の監督に、オリンピック世界最終予選にベストを尽くすため、全日本活動に集中するよう説得されたり、怪我などで、行くのを諦めてしまった石川選手でした。
石川祐希の大学3年のエピソード(2016年4月~2017年3月)
2016年7月8日に中央大学で記者会見を開き、2回目のイタリアでの挑戦を行なうことを発表した石川選手。
前回と同じ形式で全日本大学選手権(インカレ)が終了後~3月31日までの短期派遣で、行き先はトップバレー ラティーナ。
監督のビンチェンツォ・ナッチ氏から直接オファーを受けたんだとか。
オファーを受けた石川選手は、前回は「経験」だったが、今回は「結果を出す」と強く思ったそうです。
ドイツやフランスからもオファーがあったそうですが、条件が折り合わなかったことようで、「スタメンで構想している」とラティーナの監督から言われた事が大きく響き、最終的にはそのチームを選んだ石川選手でした。
そして、ラティーナ側は、「今回はこの期間が過ぎても、石川が望めばリーグ終了まで滞在を延ばすことも協議する」と言ってきたこともこのチームを決めた大きな理由になったようです。
大学3年になった石川選手は、進路のことを真剣に考えていたそうで、卒業後もバレーをする人生を選択することに対してブレはないけど、企業に入るか、海外でプロとしてやるかまでは、具体的に決めかねていたそうです。
石川祐希の2回目イタリア在籍エピソード
インタビューでは、ご自身の進路については「わからない」と答えていたそうですが、本心は、「海外でプロになる」と思っていた石川選手は、渡伊したことで「未来」に向けスタートできたようです。
ラティーナは、卒業後に歩むバレーボール選手としての準備段階と考えていたそうですが、けがの治療を優先しなければならなかったこともあり、石川選手の満足いく結果が出なかったとか。
そして、試合の2日前にリベロで出場すると言われ「こんなことがあるのか?」とビックリした石川選手でした。
チームのリベロが怪我をしたため、急きょ石川選手のリベロ出場が決まったそうですが、石川選手のポジションはOH。
日本では考えられないポジション変更のリベロで、不安な気持ちを抱きながらも「やるしかない」と気持ち新たにしてプレーをしたそうですが、本音は「悔しかった」とのこと。
初回の渡伊と今回の渡伊との意識は全然違っていたそうで、渡航前からイタリア語の勉強をし、イタリアで生活を始めても周りと積極的に会話を重ねて、少しでも語学が向上するように努め、監督が言っていることを理解することを第一だと思い励んでいた石川選手でしたので、かなり悔しかったみたい。
今回も途中からの参加だったことだそうで、大学生であることから、大学のスケジュールい合わせるのは仕方がないけど、正直な話し、リーグの最初から参加したかったそうです。
石川祐希の渡伊後の生活
通常は、起床後にウェイト練習しに出掛けて、帰宅後にい昼寝をして、また練習に出掛ける日々を過ごしていたとのこと。
休みの日は、治療しに行った後は、出掛ける事が少なく、家でゴロゴロしてくつろいでいるそうで、日本にいた時と余り変化はなくインドア派だったみたい。
ですが、今回のイタリアでの生活は、石川選手が想像していた以上にハードなスケジュールだったそうです。
このチームで仲が良かったチームメイトは、控えセッターのマッテオ氏とリベロのファビオ氏のお二人で、車での移動の時はこのお二人にお願いしていたそうですよ。
石川祐希の大学4年のエピソード(2017年4月~2018年3月)
石川祐希の渡伊後の生活再び
イタリアのチームのラティーナに短期渡伊していた石川選手でしたが、大学最終学年となった2017年も、同じラティーナと契約しました。
取得すべき単位はすべてクリアしていたことで、今回は途中からの参加ではなく、始めからの参加だったとか。
石川選手にとってラティーナは過ごしやすく、車を持っていなくても練習場や街にも徒歩で行けるそうです。
1回目の渡伊の時に角刈りカットになったことで、周りからツッコまれていた石川選手だったそうで、今回は日本人が経営している美容院で髪の毛をカットしてもらっていた石川選手でした。
石川祐希の最後のインカレ
大学最後のインカレに出場する為に帰国した石川選手。
石川選手の胸の内には「チームのために勝ちたい」何故なら「自分はほとんどチームにいなくて迷惑をかけた」という思いが詰まっていましたが、残念ながら結果は3位に。
3位決定になったインタビューで、「チームメイトのために、スタッフのために……」と、答えている途中で言葉に詰まり、涙した石川選手でしたが、それは、「大学での競技生活が終わったという想いからの涙」だったとか。
海外でプロ選手として活動することを目指す事にした石川選手は、卒業式には出席せず、そのままセリエAでプレーすると決めていたのでした。
石川祐希の大学卒業後の進路
大学卒業後はプロになる頃を2018年6月に宣言した石川選手で、行き先はセリエAのシエナ。
コートを離れればフレンドリーにつきあえる環境の中で、プロプレーヤーとしても人間としても成長を遂げている石川選手の未来は明るい♪
日本のプライベートではまったく動かないことから「ナメクジ」みたいな人と言われていた石川選手のバレー人生はまだまだ続きます。
石川祐希の学歴
石川祐希の学歴
愛知学泉大学付属幼稚
↓
岡崎市立矢作南小学校
↓
岡崎市立矢作中学校
↓
星城高等学校
↓
中央大学
石川選手の最終学歴は大卒
お付き合いを頂きまして、ありがとうございます。
石川選手の「生い立ち」はこれでおしまいです。
この記事の参考元:当サイト旧記事・女性自身2016/05/31・オリンピック競技大会2022年12月 16日・4years.2020/05/08・4years.2020/05/07・4years.2020/05/06 ・web Sportiva2016.07.10・」web Sportiva2020.05.18・web Sportiva2018.01.21・web Sportiva2018.01.18・web Sportiva2017.12.07・web Sportiva2017.02.01・web Sportiva2017.01.30・web Sportiva2016.07.10・web Sportiva2015.02・FNNプライムオンライン2023年2月20日・野口 嵩広Instagram・HitoMoji ONLINE・子ども応援便り・AERA dot.2017/09/19・AERA dot.2017/02/09・OSAPO日記 安城市議会議員 深津おさむ園・Twitter・ほか
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